
ここの管理人さんが、『書きあぐねている人のための小説入門』(保坂和志)を薦めていたので読んでみた。小説作法というより小説論というようなものであろうかと思うが、
すごい本だなあと思った。読んでみなけりゃわからないというような、とても深いものであるのだ。これを要約などしたら、作者にしかられてしまいそうなのだ。そう、たとえば、「あの小説はこのようなことが書いてあった」と言うとすると、それは、その小説の本質をまったく表していないというのだ。小説とは、「作者と読者との一対一の対決」とでも言おうとしているかのような言い方だ。それは、『絵画』を見るのと似た感覚のように思える。見て、どのように感じたかは、見た人によって、全然、異なったって、それはその人の絵の鑑賞のあり方なのだから、それでイイというようなものと似ている。
『小説の運動』という言葉を使う。それは書き手の話であるが、小説を書くのなら、予定した、企画した、想定した、そういうものから離れていって、何か違うものが現れてくるのが、小説の醍醐味だ、と言う。「予定していたとおり書けて、それのどこが新しい発見なのか?」と言う。予定していたものから、どんどん離れていき、小説が勝手に運動していくのがよいと言う。なるほどなと思う。それが、言語芸術の真骨頂というものであろうかと思う。
しかし、それは、あくまで、『言語芸術』という範疇の話ではないか。小説の話をしているのだから、それのどこが悪い? と言われれば、どこも悪くない。
私自身の、小説など、言語による構築された作品についての考えは、どれがイイもクソもない。書きたいように書けばいい。他人がどう思おうと、そんなことは、どうでもよかったり、あるいは、読者が面白いと言ってくれれば、それでイイというようなものもあってよいと思っている。第一、言語なんてものは、人間の表現能力のきわめて小さな一片に過ぎないと思っているからだ。いや、もっと、過小評価しているかも知れないとさえ、思っているのだ。つまり、「脳」という臓器の活動の、きわめて限られた活動のさらに一部が言語として現れているに過ぎないはずだ。それをどう思うかなんて、どんな決定もできないだろう。ただし、『小説は』という範疇に限れば、そこには、いかなる芸術論が出てきても、それは当然と言える。
DNAの二重螺旋を発見したクリックが、脳研究者に転向して最初に言ったのは、この2000年間、哲学者は何も残さなかった、ということらしい。そりゃそうだろう、脳の活動の全容が分からなくて、「言語」の本質的意味が分かるはずはないのだ。人の生の何たるかなどは、言語の問題ではない。究極は、『物質化学』の問題だからだ。この世でもどこでも、物質でないものは無い。すべては単なる物質だ。時間だって物質だ。物質だから化学変化する。すべては、それだけのことだ。言語というようなものは、そういう生の本質とは無縁のものだ。
しかし、「小説という芸術はどうあるべきか」と言えば、『小説の運動』というような、とてつもなく言語的なもので語られて、それが、よい、悪い、というようなことを言うのは、重要なことだ。
私には、その区別はよく分からないが、『純文学』という区別があるのなら、小説は、『純文学』と『それ以外』というような区分があった方がイイように思う。どうも、純文学でなければ、小説の運動などということは、難しいのではないか。だから、オレは純文学をやろうとしているというなら、徹底して、純文学をやればイイような気がする。
少しでも、『ストーリー』などを、書こうなどしている人は、その時点で、もう、『純文学』をやっているなどと思うべきではないような気がするのだ。世間が面白いと言ってくれる小説を書こうとしている、「それ以外の作家」と思えばよいのではないかと思う。
『書きあぐねている人のための小説入門』は、そういう、私流の理解の上で、ものすごく、面白かったと思うのだ。