早野梓と樹海と

富士北麓に住んで30年が経ちました。その間、青木ヶ原樹海、富士五湖を中心に小説の舞台にしたり、四季折々の自然を楽しんできました。
これからも、さらに仲間たちと、それらの思い出づくりを積み重ねていこうと思っています。
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本)私って誰?[2010/06/21 05:23]
book タイトル 私って誰?
著者 早野梓
私って誰? (ちょっとミステリー)
早野 梓
批評社
売り上げランキング: 145570


いまの私って誰だろう、と思っている私は、すでに私ではない。人間の身体を形作っている細胞は秒速で分裂を繰り返し、いまの自分とは違った生き物になっている。ただ意識されないだけなのだ。私の意識も意識下の自分と無意識の自分とは重なり合っていて、無為意識の自分は、私が思ってもみなかった思考や行動をともなうことがある。
道具を使い、言語を持ってこの地球を征服した人間という生き物は、その原罪ともいうべき意識(無意識)に支配されて、生命を自ら絶つという不条理や自然の摂理を超えた性欲や殺人や犯罪に翻弄されることになる。
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③「私って誰?」という本の中に、死んだ母親と主人公が交信するシーンが出てくる。それは、早野の「絶望」を知ってしまうと、そこはかとなく、悲しくもあり、面白くもある。

笛吹 [2009/11/18 04:34]
②比喩的に言えば、「完全痴呆症」の人が持っている「私」が「真実の私」だと言えるかも知れない。そして、さらに、「真実の私=物質に過ぎない」という決着をみる。物質だから、いずれ消える。「観測する主体としての私」さえ、いずれ消える。あるいは化学変化により他の物質になっていく。人間が焼かれれば、すべてが終わりではなく、人間を構成していた物質が、化学変化によって、他の物質になっていくだけなのだ。物質としては、そこで、「永遠」である。それが、早野にとって、「絶望」なのだ。早野は、その絶望を知りつつ、それを基盤にして、「人間世界を描く矛盾」と、まさに早野流に言えば、「交信」しようとしているのだ。その視線は、いつも、やさしい。解決不能な絶望から発信される言葉だ。やさしく楽しいものであることが、せめて、一時の、やすらぎなのではないか。人間世界にとどまっている間は、せめて、人間を生きようと決意しているのではないか?

笛吹 [2009/11/18 04:23]
①早野が書いているものに、すべて共通する根源的視点を発見した。その根源的基盤は、「絶望」ということだ。この絶望という意味は、「永遠」という言葉の対極にあるものと考えれば分かりやすい。それを語るのが、「観測する主体としての私」なのだ。視点は、徹底的に、その「私」であるのだ。物語はそこから見られた世界が描かれているだけだ。それは、あくまでも、「観測する主体である私」としての視点から見られている。そして、ついに、「私が私を見る」という特異点を語らなければならなくなる。実際には、その「私」というものが存在しないことに気がついてしまう。「私が……」と早野が語る時、それは「真実の私」ではなく、「幻想の私」だと、知ってしまう。

笛吹 [2009/11/18 04:22]
これを読むと、この作家の本音が、よく読み取れる。現実と、ありそうな非現実の境界線を、この作家は生きている。「超ヒモ理論」という仮説があるくらいなのだから、いまや、小説も、なんでもアリだと思う。この作家には、読者に、迎合しすぎないよう、「えっ」と思うものを書き続けて欲しい。

水無瀬橋 [2009/11/09 23:30]

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