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カブトムシが好むクヌギがあった。樹皮からあまい水分を吸うのだ。クリとクヌギの葉はそっくりだ。クリは葉の周囲のトゲのようなものが葉と同じ緑を維持している。クヌギはそこが少し色が違う。そんな小さなところで見分ける。もちろん、実がなれば、クリはクリの実であるのですぐ分かる。クリは人間に食べられるから、貯蔵場所を忘れるという原理からは外れるだろう。でも、ヤマグリは、依然として植物の戦略の掟を確保しているに違いない。
昆虫が花粉が運ぶにしても、植物の「何か」と、動物の「脳」との、なんらかの、かけひきがあるのではないか? というのが、我々、夫婦の見解だ。
「植物は、この位置だけが、世界。昆虫は、もうちょっと広い世界を持つ。鳥は地球全体を世界にするものもいる。人間は、宇宙の一部さえ、我が世界にしつつある。人間が、やはり、一番、大きな存在なのかしらねえ」
「世界が広いことが、幸せかどうかは、わからない」
私が答えた。
「そうねえ、知らないことが幸せってこともあるし、植物を観察していると、生命の根源的本質は、脳ではないことだけは、確実だと思うわ」
これは、私が若いころからの持論である。何回も、そういうことを言っているので、妻もそう思い込んでいるふしがある。つい最近までは、そんな、難しいことは、さらりと、流れていってしまう会話だったのだが、今では、お互い、真剣な会話となってきた。
人間が、年をとって、痴呆症になった時、脳が人の生きるための中核的役割を担っているのなら、痴呆症の人は人間ではない。人間の生の根源が、脳ではないとしたら、人間は、生命あるかぎり人間である。それは、夫婦の間では、いずれ決着をつけなければならないと、両者とも、奇妙な覚悟を持っている。
妻は、自分が痴呆になったら、粗末な施設に入れて、家族の負担にならないようにして欲しいという考えに傾いている。
私は、たとえ痴呆になっても、私は私だから、生命力のあるかぎり、介護をして欲しいと言っている。動物から、植物になったということにして欲しいと……。
そういう意味では、植物人間という言葉には違和感を感じる。もしかしたら、植物の方が人間より、はるかに、したたかなのかも知れないからだ。
樹木の葉は、落葉樹であれ、常緑樹であれ、夏はキラキラと輝くようにきれいだ。カエデなども、確かに、紅葉の時期は、色とりどりできれいで、はなやかだが、生命力という観点からみると、やはり夏の葉のほうが、生き生きとして見える。若いからなのだろうか。
「若いからきれいという言い方には抵抗があるわね」
妻が、アチコチに視線を延ばしながら言った。
私も、その意見には賛成だ。この六十歳前後の年になるまで、いつの時代が一番よかったか、と聞かれれば、今が一番いい、と答えるに違いない。もう元には戻れないと分かりきっているからなのか。あるいは、ほんとうに、生活状態も安定し、子どもも、そなりに社会に巣立って、気持ちが楽になったせいなのか。気分的には、なぜか、ゆとりがあるのだ。
「あっ」
私が声をあげた。
木肌がゴツゴツしているコナラやクヌギの間に、「アワブキ」の木が見えたのだ。まるで茶色の細い電柱でも立っているかのように、すべすべとした木肌のアワブキだった。私の気持ちとしては、