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 晩夏のある土曜日午後、夫婦して、老後にそなえての、いつもの散歩道を歩いた。空は青い。空気が乾燥しているのだろうか、そんなに暑さは感じない。
 私は、カメラと、お気に入りの光学十八倍の手振れ防止付きの双眼鏡を、ケースから出して準備をしていた。
「昔は鳥が一番大きな世界を持っていたのでしょうね」
 妻が、何げなく言った。
 上空に、何という鳥なのだろう、三角形に見える絵を描くような列を作って飛ぶ鳥の群れが見えた。
 この道は、東京・八王子の、ある女子学園の校舎群を両脇に割るようにその真ん中を走る坂道で、高校と、大学の教養部があるところだ。周囲から見ると丘の上に学園が見える。この時期は夏休みではないかと思うのだが、制服を着た高校生の姿が、少しだが、見える。
 樹木は、その学園の道路の境界線の役割を担うような並び方になっていた。大きな樹木ばかりなのでよく見える。どうぞ、ご自由に観察して下さいと寛容な姿勢を示しているようにも思える。
 昔は、ここらへんは武蔵野の雑木林とは違って、大きな森であったはずだが、幅の広い道路が走り、木々の生育のために下草などを刈って整備しているのだろう。雑木林と言ってもいい樹木群に変化した感がある。常緑樹はヤブツバキくらいで、おおむね、ドングリの実をつけるコナラと、カエデを中心にした林だ。そんなに樹木に詳しくはない我々夫婦には、何という木か分からないものの方が多い。それを、できるだけ観察するのに都合がよいのが、十八倍の双眼鏡だ。樹木は、真近で見ると、葉は上部遠くに見える。木肌だけで樹木を判断するのは難しい。葉は樹木の名を同定するのに役立つ。双眼鏡は、遠くにある葉脈まで見えるものもあるので、便利である。
「あっ」
 私が、双眼鏡を眼から外し、声を出した。
 おそらく丘の上に校舎があるから、道路の両脇をつなぐためには、その陸橋は車から安全で、便利なのだろう。双眼鏡の動線がその地点を通った時、木肌ではなく、瞬時にそれが何と分かる、肌色が動くのが見えたのだ。下から覗くような形になった。
「どうしたの? 何か見えた」
 妻が聞いた。
「いや、なんでもない」
 私は、ぶっきらぼうに答えた。何か心に動揺があったような気がしたので、なんでもない、という言葉が、この場面に一番適している言葉に違いなかった。あるいは、早くこの場面を変えたい気分であったのかも知れなかった。
 妻が、先日の台風で落ちた小枝に、まだ成熟していないドングリがついてあるののを拾いながら、言った。
「このドングリは、コナラのものよね。植物は動けない。でも色々な戦略によって子孫を増やそうとしているのよね。昆虫を頼ったり、風に頼ったりね。でもドングリは動物に食べられるように仕組まれていて、食べられたらダメ。リスなどが冬のために蓄えておいたものの場所を忘れてしまったところから、新しい芽が出るんでしょ。脳のない植物が、動物の脳の欠陥を予測しているって、あまりに不思議過ぎない」
 妻がこういうことを聞く時には、返事は必要ない。返事のしようがないことを、お互いが分かっているのだ。
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 カブトムシが好むクヌギがあった。樹皮からあまい水分を吸うのだ。クリとクヌギの葉はそっくりだ。クリは葉の周囲のトゲのようなものが葉と同じ緑を維持している。クヌギはそこが少し色が違う。そんな小さなところで見分ける。もちろん、実がなれば、クリはクリの実であるのですぐ分かる。クリは人間に食べられるから、貯蔵場所を忘れるという原理からは外れるだろう。でも、ヤマグリは、依然として植物の戦略の掟を確保しているに違いない。
 昆虫が花粉が運ぶにしても、植物の「何か」と、動物の「脳」との、なんらかの、かけひきがあるのではないか? というのが、我々、夫婦の見解だ。
「植物は、この位置だけが、世界。昆虫は、もうちょっと広い世界を持つ。鳥は地球全体を世界にするものもいる。人間は、宇宙の一部さえ、我が世界にしつつある。人間が、やはり、一番、大きな存在なのかしらねえ」
「世界が広いことが、幸せかどうかは、わからない」
 私が答えた。
「そうねえ、知らないことが幸せってこともあるし、植物を観察していると、生命の根源的本質は、脳ではないことだけは、確実だと思うわ」
 これは、私が若いころからの持論である。何回も、そういうことを言っているので、妻もそう思い込んでいるふしがある。つい最近までは、そんな、難しいことは、さらりと、流れていってしまう会話だったのだが、今では、お互い、真剣な会話となってきた。
 人間が、年をとって、痴呆症になった時、脳が人の生きるための中核的役割を担っているのなら、痴呆症の人は人間ではない。人間の生の根源が、脳ではないとしたら、人間は、生命あるかぎり人間である。それは、夫婦の間では、いずれ決着をつけなければならないと、両者とも、奇妙な覚悟を持っている。
 妻は、自分が痴呆になったら、粗末な施設に入れて、家族の負担にならないようにして欲しいという考えに傾いている。
 私は、たとえ痴呆になっても、私は私だから、生命力のあるかぎり、介護をして欲しいと言っている。動物から、植物になったということにして欲しいと……。
 そういう意味では、植物人間という言葉には違和感を感じる。もしかしたら、植物の方が人間より、はるかに、したたかなのかも知れないからだ。
 樹木の葉は、落葉樹であれ、常緑樹であれ、夏はキラキラと輝くようにきれいだ。カエデなども、確かに、紅葉の時期は、色とりどりできれいで、はなやかだが、生命力という観点からみると、やはり夏の葉のほうが、生き生きとして見える。若いからなのだろうか。
「若いからきれいという言い方には抵抗があるわね」
 妻が、アチコチに視線を延ばしながら言った。
 私も、その意見には賛成だ。この六十歳前後の年になるまで、いつの時代が一番よかったか、と聞かれれば、今が一番いい、と答えるに違いない。もう元には戻れないと分かりきっているからなのか。あるいは、ほんとうに、生活状態も安定し、子どもも、そなりに社会に巣立って、気持ちが楽になったせいなのか。気分的には、なぜか、ゆとりがあるのだ。
「あっ」
 私が声をあげた。
 木肌がゴツゴツしているコナラやクヌギの間に、「アワブキ」の木が見えたのだ。まるで茶色の細い電柱でも立っているかのように、すべすべとした木肌のアワブキだった。私の気持ちとしては、
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さきほどあげた声と同じような感覚だった。
「あら、ほんとうにきれいねえ。まだ若木なんでしょうねえ」
 妻が、言葉になんの抑揚もなく、言った。