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 小学生の頃、鉱山で育った。その山も昭和四十八年に廃山となった。
 廃山を耳にしたのは東京でだった。
 恐かった。子ども心に、その町の光景のいたるところが恐かった。
 製錬所の、巨大な煙突が、空を突き破るのではないかと思うほど高く聳え、煙りを上げていた。
 鉱石は、地下深い坑内から掘られてくるのだが、山の上の方から運ばれてくるものもあり、鉱物を運ぶ、錆びた巨大バケツのようなケーブルカーが空を動いていた。
 鉱物は、一旦、選鉱所というところに運ばれ、そこで砕石されてから、一定のものが、製錬所まで運ばれる。何しろ、扱う代物が鉱物である。すべてが大きく、汚れていた。
 町のあちこちに見られる、大きな建物は、戦争中に、敵に目につかないようにと、黒く迷彩服のような縞模様がほどこされ、うすく残っていた。それが、よけいに異様な感じがした。
 恐いという意味では、目には見えない部分での恐怖も感じた。自分たちの歩いている地面の下に、一二〇〇キロメートル、東京から博多ほどまでの距離の坑道が、幾重にも、掘られていると聞かされたことも恐かった。坑道の支柱は木材で作られている。それが腐って、地盤が落っこちていくのではないかと想像して恐かった。現実にはそんな話は聞いたことはなかった。しかし、今は、それは恐い。そんなに、いっぱいの空洞があって、永久に何事もないとは、私には想像できない。いつか、何かあると思えて仕方ない。
 具体的に目で見えた災害的不快な恐さはいくつか感じていた。
 山の樹木は、製錬所から出る亜硫酸の影響を受けたり、坑道の支柱をつくるために伐採されたりして、製錬所の近くの山は、完全に禿山だった。製錬所から遠くの方の山まで大きな樹木はなかった。山で土ソリをした記憶が残っている。
 洗濯ものが、煙で黄色くなった。
 川は、少し雨が多いと、禿山の土石流と重なり、黄土色の流れとなった。その川の流れに、鉱毒が含まれ、その川の下流の村の農作物に、とてつもない悪影響を与えた。
 それは、国レベルの大きな事件だった。後に、日本の公害の原点と言われるようになった。
 ただ、子どものころに、その事件の酷さについて、親や周囲から詳細を聞くことはなかった。小学校の先生も、きっと身近な話のはずなのに、その話題には触れなかった。
 だから、その鉱毒事件の詳細を知ったのは、大学に行くために東京に行ってからのことであった。
 生まれ故郷が鉱山だった。それだけの話である。
 それだけなのだが、未だに、故郷に、懐かしさも、癒し的気持ちも湧いてこない。むしろ、生まれ故郷に敵意みたいなようなものさえ、気持の底にあるような気さえする。
 本来は、故郷というだけで、その言葉には、やすらぎのような意味合いが含まれているような気がするのだが、そういう気持のまったくない故郷もあるのだと、いまさらながら、思うのだ。
 だからといって、その町に、まったく足を運ばないわけではない。
 昔、とてつもなく巨大な禿山だったところに、緑を取り戻そうと、多くの人が植林活動をしている。私も、ささやかながら、その活動に参加しているのだが、それらの緑がどのくらい復活していくのかをみるのは、小さな楽しみであるので、時々は、そこに足を運ぶのである。
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 自然には、自然のオキテがあって、森は、地衣類、苔類が生えては枯れ、それを繰り返して、多少の土壌ができると、先駆植物のオンタデやイタドリなどの草木が生え、それから四百年くらいたってから、マツなどの針葉樹が生えはじめ、少しずつ森の形が作られていくのだ。植林は、それらの自然の森の形成過程に反する行為のように思う。
 しかし、人間が過度に自然を破壊した場合は、その時間を待てない。待っていると、破壊された自然のために、それとは関係ない人も含めて、多くの人の生活を脅かすことになるからだ。時には、人命に関わることもある。いや、現実問題として、そういうことが起きてしまった過去が、あったのだ。自然には申し訳ないと思うが、やはり植林などにより早急に緑を回復させて、未だ鉱毒の残っている山からの土砂が川に流れないようにすることは、やむをえない重要な作業であるのだ。
 この町には、鉱業所の従業員とは関係のない人たちも、昔から、いたようだ。
 つい先ごろ、この町に住んで三代目だという、私よりは、いくつか年上の鉱業所とは関係のない人に、町の状況を聞いた。そうしたら、今でも、製錬所から下流の川では、まともに魚も育たないと言った。大雨の日は、どうしても山からの土砂が川に入り込むので、関係者が、鉱毒を中和する作業に忙しくなると言った。
 鉱山が開かれてから、四百年もたった今でも、そういうことがあるかと思うと、人間の無謀な自然利用は、後世に、とてつもない、取り返しのきかないほどの、後悔を遺すものだと、あらためて知らされた。
 ただ、見た目では、気持なごむ風景がないわけではない。
 そこで働いた人たちの社宅が、いくつか残されているところがある。長屋になっていて、そこは、六軒分に分かれている。水場は外にあり、きっと井戸であったのであろう。トイレも外にある。それぞれが共同で利用したのであろう。風呂はもちろん共同風呂である。それらは、江戸時代の長屋を彷彿させて、ある種の趣きがある。もちろん、今、そこに住む人たちは家を広げ、水道もトイレも、風呂も改造し、家の内にある。いわば今流になっている。何のために、今でも、水場や使わないトイレがあるのか知らない。一種の観光用になっているのも知れない。
 確かに、現時代的には、昭和三十年代的な様相を呈していて、映画などのロケで、よく使われているようであった。なつかしき情緒ある光景に思われる。
 地区によっては、昔からの、庭つきの一軒家もいくつかある。それは、かなり大きく、外見は古いが、今も変わりなく人が住んでいる。
 物質的に豊かになった今、公共の団地では、水道もトイレも風呂も、家屋内にあるのが普通だ。それが普通だという視点からみると、もし、水場などが外にあるとしたら、我々は、毎日の生活としては、かなり不便だろうと思わざるを得ない。
 一度、映画のロケが、どのようにして、昭和三十年代の雰囲気を出しているのか、確認をしてみたいと思っている。
 そのほかにも、不思議な出来事があった。事件といってもいいのかも知れない。私が直接、見たわけではないので、はっきりしたことは分からないのだが、大雨の濁った川に、子とともに飛び込んだ親子があった。時々、中学校を卒業して間もない人が、単線の汽車に飛び込んだ人がいた。鉱山だからということなのだろうが、ダイナマイとを抱えて自殺をはかった人がいた。坑道があったのだから、落盤事故は時々あった。
 そんな時の、長屋の水場の雰囲気が、異様に、重たかった記憶だけが残っている。差別という言葉を知ったのも東京へ出てからのことだった。
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 今、鉱山は廃山となった。私には、町全体が、廃心のように見える。町には、未来に希望がないと、そこはかとなく、さみしさを感じるような気がする。その希望がどのようなものであっても、希望が町をつくるのだという気がしてならない。私の生まれた町は、国に大きな貢献をした。その一方で、明らかな間違いというか、してはいけないことがなされたと言われている。
 鉱山が町をつくった。その町で私が生まれたというだけの話だが……。