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 富士五湖の一つ本栖湖に観光に行った。
 本栖湖は、富士五湖では一番西側にある。市町村合併前は、上九一色村に属した。オウム事件の主犯を逮捕する時は、大量の警察の車が集合した。
 今では、夏になると、車道の片側に、車がいっぱいになるほど、ウィンドサーフィンをやる若者でにぎわう湖となっている。
 私は、今の千円冊の裏側に描かれている、本栖湖から望む富士山の見えるポイントへ行った。自分の目で、その富士山の光景を見たくて、一人で行った。夏だから、本栖湖は、やはり込んでいた。
 富士五湖なら、どこへ行っても、富士山はすぐそこに大きく聳えて見えて、その巨大さに圧倒される。とくに、夏の富士山は、山頂に雪がない分、赤茶けたゴツゴツさが際立って、私には、男性的に見えて、好きであった。
 多くの人が、千円冊を手にしながら、写真を撮っていた。私も同じことをした。
 私は、あてもなく、ここに来たから、車の内で、コンビニで買った弁当を食べ、そして、車に入ったり、出たりを繰り返していた。車の窓を全開にしておくと、標高一〇〇〇メートルの風が心地よかった。
 時は、ゆっくりと流れていた。いつのまにか、夕刻になっていた。
 帰路につくことにした。
 私の家は、中央高速道路の東京・八王子インターで降りて、そこから近いところにある。ここからなら、河口湖インターで高速に乗れば、そのまま一直線だった。夏の観光シーズンだから、上りの東京方面は渋滞しているのは常であったが、それを覚悟して、戻ることにした。
 普段の、空いている時の、二、三倍の時間はかかるだろうと思っていた。私は、それでもよかった。車のなかで、自分の好きな音楽を、少し大きめな音で、ゆっくり聴けるのが、むしろ楽しみでもあった。案外、誰にも邪魔されずに音楽を充分堪能できる場所は、そうないものであるというのが、日常的経験であったからだ。運転に無意識になるのか、音楽に無意識になるのか、いつも家に着いた時は、もう着いた、という感覚を持つのだった。
 本栖湖から、国道一三九号線を、精進湖、西湖付近を通り、河口湖インターから八王子に向かう。国道一三九号線は、少し込んではいたが想定したくらいであった。ただ、「富岳風穴」付近が、ひどく込んでいた。その駐車場が騒然しているのが分かった。
 本栖湖から精進湖、西湖付近までの国道一三九号線は、いわゆる青木ケ原樹海の内に開かれた道路だ。道の両側が樹海だ。道の途中に、「富岳風穴」と、「鳴沢氷穴」という、大きな洞窟があり、観光名所となっている。
 洞窟といっても、火山の熔岩でつくられたものだから、正確には、「熔岩トンネル」という。つまり、その洞窟は、単なる洞穴ではなく、くねくねと道のようになっているのである。熔岩の流れた跡なのだ。
 それは、とても貴重なものらしいのだが、そういうこととは無関係に、別の意味で、青木ケ原樹海は、日本一の「自殺の多い森」として有名になっている。公式発表だけでも、年間に発見される死体の数は、一〇〇体を超える。まさに、「死を誘う森」と言っていいかも知れない。
 私も、
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何回か行ってみたが、多くの木々の生きている森に過ぎないと思っただけだった。台地が熔岩でできているから、そこに棲息する樹木の根が、みな熔岩の表面に出ていて、それが不気味だといえばそうとも言える。それが植物の強い生命力の象徴的な神秘だといえばそうとも言える。それをどう思おうと、それは見る人によるのではないかと思えた。ただ、どう考えてみても、何か、自殺を誘うような要素があるようには、私には、見えなかった。むしろ、夏でも、空気がややひんやりとした、爽やかな森だという印象しか持たなかった。
 その「富岳風穴」の駐車場が、騒然としていた。パトカーがいて、警察官が忙しそうに動いているのが見えた。救急車も見えた。死体を搬送するための、大きな白いバンのような車も見えた。車の上に緊急ランプがついているのでそれと分かる。まあ、自殺事件があったのだろうが、該当者は、生きているのか、もう死んでしまっているのか、通りがかりだけでは、判断はつきそうもなかった。
 道路は少しずつだが動いていたので、私はそれにまかせるようにして、そこを通り抜けた。どんな事件があったとしても、自殺であってもなくても、結局は、気の毒になあ、という他人事の言葉で、しめくくるしかないのが、現実だ。
 音楽の音をやや大きめにした。これから、中央高速道に乗る。時間はかかるだろうが、私には、ある意味、至福の時間といえなくもない時間であるのだ。
 中央道の河口湖インーに着いた。ETCを搭載しているので、入り口は、いつもスムーズに入れる。しかし、その時は、ETCの入り口にも、他の入り口にも、車は一台も見当たらなかった。へえ、と奇妙な感じを受けたが、そのまま、高速に乗った。
 空いていた。というより、道路の前後に、一台も車が見えないのだ。今度は、あれ? と思ったが、そのまま走り続けた。しばらく走ったのだが、どこまで走っても、前後に、車の影がない。もしかしたら、何かの事情で「通行止」だったのかと気がかりになり、途中の電光掲示板を見た。別になんの表示もない。対抗車線には車が走っていた。何回も、道路の前後を確認したが、車は見えない。おかしい。違う路線に入ったのかも確認したが、間違いなく、いつもの路線だった。もし事故などで、通行止めならば、途中の、大月インターで表示が出ているだろうと思い、気楽に車を走らせたが、そこにも、異常を示す掲示はなかった。何も示されていないのだから、と思い、私はそのまま車を走らせた。
 いくら走っても、やはり、前後に、車は見当たらない。何十年もこの路線で、車に乗っているが、こんなことは、はじめての経験だった。
 まあいいか、と思いつつ、そのまま車を走らせた。
 そうしているうちに、いつも考えもしないことを考えた。たしか、本栖湖を出る時には、もう、かなり大きな音で、音楽のスイッチを入れていた。もしかして、河口湖インターを入る時に、ETCは、きちんと感知されただろうか、などということが、気になりはじめた。音楽の音で、感知音が聞こえなかった可能性もある。それが感知されなかろうと、道の混雑度合いとは関係ないのだが、いやに、そんなことが気になりはじめた。もし、感知されなかったとしたら、八王子インターを出る時に困るなあと思った。高速券は持っていないし、ETCゾンーン内に入り込むと、出ることができない。そんな場合は、一旦、バックして、料金所の人に説明すればよいのだが、後ろに車がいると、やっかいなことになる。当然、ゲートが空くものだと思っているから、後続車はそのつもりで入ってくる。かつて、それで、後続車に追突されたことがある。
 普段から、なぜゲート・バーがあるのか、気になっていた。
 今の科学技術なら、かなりのスピードでも、充分、感知できるはずだ。それなら、バーは必要ないのではないか、と思っていた。ある時、関係者に聞いてみた。すると、そうすると、ETC装置のない車が勢いよく通り抜けてしまうので困るのだ、と言った。でもナンバーは分かるのでは? と私は聞いた。そういうことが多くなると、高速料金未払い者が増え、手続きや、事務量が膨大になるから大変なんだと言った。なるほど、その場だけの事情だけで判断できないものなんだなあ、
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と思ったことがある。そんなことを考えるくらいだから、私は、ETCや電車の自動改札に、奇妙な感覚を持つ習性があった。器械を操作するヤツらの都合のいいように自分があやつられているようで、何かイヤな抵抗感があった。
 それにしても、いつまでも、前後に車は見えない。空いているのだと思えばそれでよいのだが、まったく車のない道路は、底はかとなく不気味に思える。普段とは少し違うという感覚ではなく、一人、まったく違う世界に迷い込んだような感覚に陥るのだった。いつまで走っても、車はない。周囲の光景は見慣れたものだ。理由のない不安が、頭いっぱいに広がっていた。
 すると、道路の遠くに、「ETC作動確認ゲート」という看板が見えた。こんな看板を今まで見たことは無かった。いつのまにか、入り口のゲートで、ETCの器械が誤作動しなかったかどうか、確認まで、我々の自己責任としようとして、背後の、器械をあやつるヤツらが考えたことだろうと、腹立たしく思えたが、まあ、このくらいならと、私は、そのゲートに入った。
 入った瞬間、あっと、声を出した。
 道が無い。ゲートの先は道路が途切れているのだ。ETC確認ゲートにも、制限速度二〇キロとなっていた。私は、減速はしたが、五〇キロくらいだったろう。急ブレーキをかけたが間に合わなかった。落ちたところは、湖のようだった。この路線では、湖と言えば、相模湖しかないのだが、まだ、その地点までは行っていなかった。何んという湖か想像ができなかった。
 車は湖に沈もうとしていたが、窓を閉めていたので、車内には、まだ空気が残っていて、落下速度はゆるやかだった。私はとっさに、窓を開けるボタンを押した。窓は開いた。私は、その空いた窓から脱出した。車が勢いよく落下していくのが見えた。私は水泳は得意だ。一旦、水面に顔を出し、一呼吸してから、靴を脱ぎ、服も、できるかぎり脱ぎ捨てた。
そして、ゆっくりと、周囲を見回し、岸に向かって泳いでいった。岸に人気はない。だが、とにかく、岸に上がることが先決なので、近くの岸に上がった。そう高くはないが、そこは崖下だった。こんなところに、と思うような、「リョウブ」の木が花をつけていた。
 リョウブの木は、木肌に特徴があり、灰褐色の地肌が、あちらこちら、剥がれて、濃い茶色の箇所や、うすい灰色など、まだら模様になってるのだ。武蔵野の林を代表する、落葉樹だ。その木を、そのまま、床柱にする粋な人もいるくらい、キレイな木肌をしているのだ。私は、そのそばまで、とにかく辿り着いた。そこから、気を失ったのか、何がなんだか、分からなくなった。
 しばらく時間が経過したように、思えた。
「キミ、しっかりしたまえ。私の言っていることが聞こえませんか?」
 警察官だった。リョウブの木を背後にして、私に、話しかけていた。
「ああ、ということは、私は助かったのですね。だって、ETC確認ゲートに入ったら、あっという間に、湖に転落したんですよ。必死にそこから脱出したんです」
 私は状況を説明しようとした。すると、警官が強い口調で、
「キミ、何を言っているのかね、ここは、青木ケ原樹海の富岳風穴の付近だよ。キミが首を吊った瞬間に、観光客の人に、抱きかかえられて、ここに寝かされているんだよ」
 警官は、確かに、そう、はっきりと言った。
「違う、私は湖に落下したのだ」
 と言いながら、
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周囲を見回すと、湖などない。たしかに、樹海内だ。どこで、何をどう錯覚したのだろうか? ぼんやりしながら、しっかりしようと、自分に言い聞かせるのだが、どうにも、身体が動かない。金縛りにあったような感覚だ。
 どういうことか? 私の身に何があったのか? 焦りがつのってきた。
「キミ、いつまでも、こんなところで、何をしてるのかね?」
 リョウブの木を背後にした警官が、詰問口調で、しかし、さきほどの剣幕からみると、かなり、静かな表情で、言った。
「だから、湖へ……」
 と言って、周囲を確認すると、なんと湖が、そこに、あるではないか。やはり、私の記憶は間違っていないと確信した。身体に、力がみなぎってきた。
「そりゃ、そうですよ。湖はちゃんとありますよ。あなた、寝ぼけているだけなんですね、驚かさないで下さい」
 と警官は、あきれ顔で言った。
「だって、確かに、湖が……」
 今度は、私は、強い調子で言った。
「そうですよ。ここは本栖湖の辺りなんですから……」
 警察官が言った。
 私は、周りを見たら、自分が車に乗っていて、その開いた窓から、警察官が話しているのだった。その背後には、リョウブの木があった。
「えっ?」
 私は、事の状況を、よく理解できなかった。
「もう、観光客のみなさんは、みな、お帰りになりましたよ。あなたは、ぐっすりと眠っておられたようですね。私たちは、パトロール中です。ここも、そろそろ陽が落ちてきます。早々に、帰られた方がよい」
 警察官の話す言葉は、おだやかだった。
 夢だったのか? 高速道路の事件も、樹海に寝かされていたのも……。でも、ほんとうに、夢なのは、どれなのか? 私の頭は混乱した。
 車のドアを開け、外に出た。すべて、警察官の言うとおりだった。つまり、ここで、うとうとして眠り込んで、ただ夢を見たということなのか? と言うことは、これも、夢かも知れないと思えてきた。次に、何か起きるような不安が、脳裏をよぎった。人生には色々な不思議がある。起きている現象を説明できないこともある。どこまでがヴァーチャルで、どれが真実なのかが分からないこともある。
 私の、八王子の家の庭にも、入り口付近に、リョウブの木がある。
 車のエンジンをかけた。
 これから、夢で起きた場所を、通過していく。
 最後のリョウブの木を、どんな状況で、見るのか? 見ないのか?