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幽霊の涙
 その夜、私は少し酔っていた。会社の近くの店で同僚と飲んだ帰りだった。いつものタクシーを呼んだ。梅雨でもないのに、雨がシトシト降り続いていた。酔っぱらっていたせいもあったのだろう。私は運転手を、からかってみたくなった。
「こんな夜には、よく、タクシーに、幽霊が乗るっていうじゃないか、まさに幽霊日和だね」
 すると、運転手は、別にいやな顔もせずに、
「そうなんですよねえ。私もこんな仕事をやっていて、二、三度、そんな事に、出くわしたことがあるんです」
 私は、この運転手も、意外にジョークの分かる人だな、と思って話を続けた。
「雨の夜に、女の人が乗ってくる。その人の家まで送ると料金がないと言って、家の中まで取りにいく。だが、なかなか戻って来ない。しかたなく、玄関までとりに行くと、お母さんが出て来て、娘は三日前に死んだ、と言う。運転手は怖くなって席に戻ると、さっきの女の人が座っていた所が、びっしょりと濡れていた、と言うのが、まあ、タクシーの幽霊の話のだいたいの相場なんだよな」
 私は半分ひやかすように言った。だが運転手は、笑いもしないで、
「そうなんです。私もそれと全く、同じ経験をしたことがあるんです」
 と言うのだった。そして、
「雨の夜というのは、幽霊にとって、傘もあるし、人目につきにくいからなんです。死んですぐの場合は、特にそうなんです。タクシーに乗るのは、元の家に戻る前に、この世の人と少しでも慣れておきたいということなんです。シートが濡れるのは、あれは雨のせいではなくて、幽霊の涙なんです。幽霊は本当は、まだまだ、この世にいたかったんです」
 と、まるで見てきたかのように、涙を流しながら言うのだった。あまり真剣に言うもんだから私は、自分で仕掛けておきながら気持ちが悪くなって、
「もう、いいよ」
 と、ぶっきら棒に言った。いやな沈黙が続いた。その間、ずっと、運転手は泣いているようだった。家に着いた。運転手は、
「今夜は、私の話がお客さんの気分を損ねたようなので、料金はいらない」
 と言うのだった。私は、腹立たしさもあって、
「うん、そうするよ」
 と言ってみたが、一応、運転手のネーム・プレートを見ておいた。「山田」という名前だった。
 次の朝、二日酔いで頭が痛かったので、車で会社まで行くことにして、昨夜のタクシー会社の車を呼んだ。タクシーに乗ってから、昨夜、料金を払わなかったのが、いささか気がとがめて、今朝の運転手に届けてもらうことにした。
「昨夜、山田さんの車に乗ったのだが、料金をはらわなかったので届けてほしい」
 と言うと、運転手の顔色が真青な顔になった。
 そして、何かに、おびえるような声で、言った。
「山田は、三日前に、失恋を苦に、自殺してしまったんです」