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 登志江は今朝も、いつもと変わりなく出勤した。良雄より少し早く家を出るのも、笑顔で「じゃ、また夜にね」という言い方も以前と少しも変わりはない。だが、最近、良雄は、登志江の様子がどこかおかしいような気がしてならなかった。
 二人は共稼ぎだった。中学生の男の子が一人いるが、出産の前後、半分ぐらい勤めを休んだ以外は結婚してから、ずうっと共働きを続けてきた。
「互いが自立した人生を歩もう。そして、困った時は、助け合う夫婦になろう。自分の人生は自分で切り開こう」と話しあった。
「私は、将来、自分の店を持ちたい。そのための資格が欲しい。何の店かは、その時まで、秘密ね。でも、店を持った時は、貴方に一番最初のお客になってほしいわ」
 とよく言っていた。
「もちろん、おれが最初の客になるさ、資金も必要なら、できるだけ援助するよ」
 良雄はそう答えた。
 二人は、この世の中で、一番信頼し合わなければならない関係なのだから、浮気だけはよそう、と約束していた。
 少なくとも、つい最近までは、何の不安もなく、順調な生活が続いていた。だが、ここ一、二ヶ月ばかり、登志江の様子がどうもおかしい。いままでになく、夜の遅い日が続く。学生時代の旧友と旅行に行く。会社の同僚の家に外泊することもたびたびあった。お互い信頼し合っているのだから、そんなことがあっても、あまり気にしなかった。だが、そんなことのあった日は、何となく、登志江の顔がうつむきかげんで、良雄の眼を避けているような気がし、いやな予感さえ、するようになった。
 ある日、同僚のところへ泊まると言うので、電話をかけてみた。女の声で、「今、お風呂に入っているから、こちらから電話します」と言って、しばらくして、登志江から電話があった。良雄はそれで安心したのだが、友達にそれを話すと、そういう手を使って、他の家と連絡を取り合うこともできるんだよ、とおどかされた。
 良雄はいやな気持で会社に出勤する日が続いた。
 すると、いままで、全く気がつかなかったが、いつも下車する駅のそばの大きなビルに、「A探偵事務所」という看板が眼に入った。人間の注意力などというものは、気になるものは視界に入るが、そうでないものは、普段は、自然と無視しているのだなあ、と苦笑してしまった。
 良雄は思い切って、そこに飛び込んだ。「妻の様子がおかしいので……」とおそるおそる切り出した。テレビなどではよく観るが、まさか自分がこういうところへ来るなどとは、夢にも思っていなかった。
 何となく殺風景な部屋が、パネル・スクリーンで、幾つかに区切られていた。他に人の気配はするのだが、音は全く聞こえない。妙な雰囲気だった。中年の男が尋ねた。
「貴方は、浮気をしたことはありませんか?」
 良雄は、今は、妻のことを調べてもらいたのだ、と少し腹が立ったが何となく問われるままに答えた。
「同じ会社の人妻と、ひそかに付き合ったことがあります。妻と比較すると、とても艶っぽくて、いい女でした。ご主人の転勤で一緒に行ったので、私ははなればなれになってしまいましたが……。その後は、ご主人が海外出張の時、一度あっただけです」
 すると、その男は言った。
「奥さんが、
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夫の浮気を知って、復讐のつもりで、自分も浮気するというケースもありますので、念のためお聞きしたのです」
 いずれにしても調査するのに一週間ぐらいかかるとのことだった。
「料金は所定の金額を前払いでいただきます」
 と言って提示された額は、思っていた金額の何倍もの額であったがこの際仕方ないと思った。
 良雄は、一週間が長くてしかたなかった。妻に男がいたらどうしよう。まさか、私の知っている男ではあるまいな。別れることになったら、子供はどうするか。いやいや、よくよく考えれば、私にとってこんないい妻はいない、別れないように解決しなくては、などと考えると夜もなかなか眠れなかった。
 一週間後に答えは出た。
「奥さんについては、旅行の件も、外泊の件も、ここ一週間の行動も、怪しいところは、微塵もありません」
 という答えだった。
 良雄の心は晴れた。人間というものは、疑えば疑うほど、ちょっとしたことまでが、疑わしく思えてくる。しまいには、それが際限なくなって、せっかく長年築いてきた信頼関係さえ、いとも簡単に壊してしまうのだ、と改めて思った。
 妻を疑って、こともあろうに、探偵事務所に調査を依頼した自分の心の狭さを恥じた。
 そして、登志江のことが、これまで以上に、いとしくてならなかった。夜、ベッドで、ライトのスイッチをまわしながら、良雄は、笑顔で優しく、話しかけた。
「登志江、いつ店を持つんだい。早く、最初の客になりたいよ」
 登志江は答えた。
「あら、店は、もう、開店したわ。それに、約束どおり、貴方が、一番最初のお客になってくれたし」
「えっ、おれは、知らないよ。どこの店?」
「うん、A探偵事務所なの。面白いお話を聞かせてもらったわ」
 良雄は次にどんな言葉を喋ればいいのか、思いつかなかった。