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私が私でない時

 ドアを叩く音で目を覚ました。そんな大きな音ではなかったが、確かに、音が聞こえた。午前二時を廻っていた。勘違いかと思いながら、とりあえずベッドから降りた。またドアを叩く音がした。学生の身分だから、あまりきれいとは言えないアパートの二階である。こんなところに泥棒に入ろうとする酔狂者などいるはずもないから、だれ? と言いながらドアを開けると、女性が立っていた。同じゼミの人だ。身に一糸まとわぬ格好だった。安アパートとはいえ、夜には、ちゃんと歩けるほどの明りはついている。道路からでも、その姿が分かるはずだ。
「どうした?」
 私は、それこそ、何かの錯覚ではないかと思った。
「あなたが、遊びに来い、と言うから、来たのよ。何してるの、今?」
 彼女は平然として言った。

 私が、こんな光景に出くわしたのは、これが、初めてのことではなかった。だが、場所も、環境も、まったく違っていた。
 去年の春の終わりころ、もう雪はまったく見られなくなった、おだやかな気候の日だった。といっても、富士山の側火口である、石塚火口付近だから、陽が傾きはじめると、かなり寒く感じる季節だった。その時は、ゼミの教授のお伴で行った。教授が、砂礫を集めるのを手伝った。その成分を分析し、熔岩の流れなどを調べるのだ。
 石塚火口は、おおかたの人が、青木ケ原樹海と呼んでいる森の、麓からみれば、相当、奥の方に位置する。その火口へ行く道があるわけではなく、木々の間を、くねりながら、歩いて行くのだ。そんな場所だから、火山関係者以外は、ほとんど来ない。樹海は自殺の名所だと言われるが、さすがに、ここまでは来ない。おそらく、よく来る来訪者は、ニホンジカかと思わせる糞が散見される程度だ。
 火口調査には手馴れているとはいえ、ほんとうに陽が落ちたら、道がないので、やっかいなことになるから、いつも通り、早めに仕事を切り上げ、道のある方角に、しばらく戻ると、人が、こちらの方角に向かって歩いて来る。すぐに女性だと分かった。何しろ全裸なのだ。まだ若い。透き通るような白い身体をしている。私は、下半身の繁みと胸のふくらみとに、交互に視線を動かした。そして、すぐに教授の顔を見た。
「自殺志願者だ、あぶない」
 私には、教授の言う意味が分からなかった。全裸で自殺? あぶない?
 私が呆然としていると、
「その女性を掴まえろ、はやく」
 と教授が言った。掴まえろと言われても、全裸の女性をどうしろというのかと思っていると、その女性は、こちらとは違う方向へ行こうとしているようだった。私は、教授に言われるがまま女性を掴まえた。その瞬間、女性は全身の力を失ったかのように、私に身体を預けてきた。身体の力だけではなく、気も失ったようだった。

 彼女が目をあけた。医師が無言のまま、指を彼女の目のそばで、左右に動かした。彼女の目がそれを追った。
「右足先が心配だったが、
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大丈夫でしょう。血が通い始めている。意識は問題ない。運がよかったということでしょうね、貴方たちと出会って……。最初は、両足切断かなあと思いましたよ。マッサージしていてくれたのがよかった」
 医師が教授に向かって言った。
「他人事ながら、まあ、一人の人間の命が助かったんだから、喜ぶべきですね」
 教授と医師は、阿吽の呼吸でもあるかのように、目をあわせた。
「酸素は1.5Lでいいだろう。点滴はすべて継続。精神安定剤を処置してあるから、しばらく、ぼうっとしているだろうけれど、もし、何か食べたいと言い出したら、あまいものを少し食べさせていい。明日、落ち着いてから、脳神経科に移す」
 医師は、看護師にそう言って、外に出て言った。
「教授、どういうことなのですか? さっぱり分からないのですが?」
「うん、睡眠誘導剤を大量に飲んで自殺をはかろうとしたんだ。しかし、薬は死に直結するものではないので、眠ってしまったが、熔岩の上で一夜は、冷えすぎる。それで目がさめなければ、衰弱死に至るだろうが、あまりの身体の熱さに目を覚ました」
「熱さ? 寒さじゃないんですか?」
「寒すぎると、逆に身体は、熱く感じるんだ。すると、無意識のうちに、服を脱いでしまう。しかし、ほんとうは冷え切っている。そのまま極限に達すると、死ぬ。しかし、今回は、我々が、すんでのところで発見したので一命をとりとめたということだ」
「右足先がどうのこうのと言っていましたが?」
「人間の血流は、心臓と脳や肺との、流れが一番優先されている。場合によっては、手足などは、そこまで血流がいかなくて、壊疽状態になり、やむなく、切断して、本体を守るとう作業をほどこさなければならないことも、少なくない。よく、樹海で、ズボンなどが脱ぎ捨てられて遺体がみつからないということが多い。冷たくてというか、熱くてというか、そこにいられなくなり、アチコチ動きまわってしまう結果だろう」
 教授が丁寧に説明してくれた。
「そうかあ、よく、樹海で、全裸の女性に会うという人がいるが、それは、大袈裟ではなかったんだあ」
 私は、かつてから、『樹海と全裸の女』のうわさを疑っていたが、まさに真実であることを、目の前で知らされた。
 数週間後に、その女性と母親が、教授のところへ尋ねてきた。
「なぜ自殺しようとしたのか、今になっては分からないんです。確かに、悩みはあったんですが、死ぬほどのことはなかった。やり直せるということではなく、『死』そのものの意味が、きちんと理解できていなかった」
 その子が言った。
「医師が、『脳も、人間の臓器の一つです。時には病気にもなります。どこに異常が生じているか、辛抱強く、検査、観察します。あせらないで下さい』と言われて、医師の言葉を信じて、治療をしてきました。かなり改善しましたが、まだ、経過観察中ですとも言われています」
 と母親は笑顔で頭を下げた。
 その、ほっとた、うれしそうな表情こそが、『生』の本質なのではないか、と思った。

 今、目の前に、よく知っている女性がいる。
 ともかくも、部屋に入れた。なんらかの自殺未遂をはかったのだと、思った。
「どうした、
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どうした? 話してごらん」
 私は、そう言うしか、言葉を思いつかなかった。
「なによ、用事がないなら帰るわ」
 彼女は、怒ったような表情をして、さっと帰っていった。
 翌日、ゼミで、その話をした。彼女は、
「何を言っているのよ。わたしは、昨夜は、部屋で、ずっと寝ていたわよ。変なこと言わないでよ」
 と強く、真剣に、反論してきた。
 私は、教授に相談した。私は、かなり真剣だったが、教授は余裕の表情をして聞いていた。
「ふううん、それじゃあ、周囲の、できれば、女友達に、そういうことが、今までなかったか、聞いてみるといい。多分、ある時期ころから、そういうことが、何回かあったはずだよ。実は、それを本人も、うすうす知っているはずなんだ」
 と教授は、何か、軽い出来事でもあるかのように言った。そして、窓の方を身ながら、
「それも私、これも私、研究中も私、睡眠中も私、どれもが私なのか? それとも、私が私でない時があるのか?」
 と、ぽつりと言った。そして、その部屋の空気が動かなくなったと、私は、思った。
「教授……」
 と私が声をかけようとすると、すっと、こちらを向き、
「ボクに答えられないことは聞くな。死については、私は考えないようにしている」
 と、私の言いたいことを、見透かすかのように言った。私も言葉を閉じた。人類の誰一人として答えを持たないことを、今議論しる時ではないと思った。
 さっそく、彼女の友達に聞いてみた。
「ああ、彼女は、よく分からないけど、夢遊病なのよ。何回かそういうことがあったけれど、全裸というのは、あぶないわよねえ。今のところ、事件までには至っていないけど。彼女には、その話はしてあるわよ」
 と、その友達は言った。
 彼女が教授に呼ばれた。教授は、彼女に、ある病院の、脳神経科を紹介した。
「教授、これって、病気ですか? 自分が気がつかない、もう一人の自分がいるのか、脳の病気なのですか?」
 彼女が聞いた。
「そりゃあ、専門家しか分からんだろうけれど、まあ、MRIを撮れば、すぐに分かるだろうよ」
 結果は、すぐに判明した。小さな脳腫瘍があった。簡単に手術で治った。

 突然見た若き全裸の女性。私には、それも軽いショックであったが、セックスをしている時、女性が、我を忘れたかのように、奇声を発する時がある。いつもの、静かな仕草の女性とは思えない。
 私は、いつか、そのことを聞いてみようか、聞くまいか、つまらない迷いを感じている。もし、それを自覚できているなら、女性というのは、とてつもなく柔軟な私を獲得しているのではないかと、思うのだ。