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 最近、関東沿岸の海水浴場付近に、時折、サメが現れる。
 このサメは、シュモクザメだ。人を襲うことはないが、五メートルもあると不気味ではある。普通、ハンマーヘッドシャークと呼ばれているもので、スキューバダイビングをやるものにとっては、特別、人気が高い。日本では、夏場なら、南伊豆の神子元島付近で見られる。冬場には、沖縄の与那国島沖で、数十匹群れているのが見られる。海温とか潮流の関係でこうなると聞かされた。そんなハンマーが人で賑わう海水浴場に?
 私が、与那国島の海に、最初に潜ったのは夏であった。民宿に一人泊まった。そこのオヤジさんがスキューバをやる時のガイド役だ。与那国島は、晴れた日には、うっすらと台湾が望める。昔は、この島の子どもは、台湾の高校に通ったという話を聞いた。夏場はハンマーは見られないよと言われたのだが、私の方から、その場所に行くだけ行ってみたいと頼み、翌朝に、行った。
 メンバーはボートを操縦する若い人と、潜るのは、私とガイドの二人だけだった。ガイドは大きなビデオカメラを持っていた。気象条件は晴れ。波の高さは、一メートル。外海にしては、穏やかな海だった。
 ポイントに着いて、同時に海に入った。潮の流れが、とても強かった。そのまま潜降した。大きな岩が見えた。その岩の突端にしがみつくようにしてつかまった。この姿でハンマーが泳いでくるのを眺めるのだと理解できた。夏場だから、ハンマーはいない。サンゴ礁もないので、色とりどりの魚たちを見ることもない。ひたすら、少し冷たい潮の流れのシャワーを浴び続けるだけであった。吐き出すエアーの泡が上にではなく、横に流れていた。しばらく何もない海を、そのまま見つめていた。ガイドが浮上のサインを出した。
 海面に上がった。ボートは少し遠いが、はっきり確認できた。ガイドが三メートルもあろうかという細い風船のようなフロートをあげた。だが、いつまで待ってもボートは近寄ってこない。そして、ついには私たちとは、逆方向に去っていってしまった。
「しょうがねえなあ。港に戻っちゃったよ」
 ガイドが言った。特段あわてている様子ではなかった。
「私たちを見失ったんですか? フロートが見えない?」
「ヤツはまだ新米なんだ。おそらく上がってくる泡ばかり見ていて、居場所を錯覚したんだ。泡が横に流れることを計算に入れていなかったんだろう。我々が浮上して泡が消えたので、居場所の見当さえつかなくなった。これだけ陽の光が強いと、海面は光っていて、フロートが見えなくなることがある」
 ガイドは落ち着いているような感じで、平然と話した。
「いつ迎えにきますか?」
「港に行ったので、地元の猟師の人の船で探そうということだな。ちょっと待つしかないなあ」
 潮の流れは強く、島から離れるように流されているのがわかる。そして、ついに島も視界から消えた。
「このまま遭難する可能性はありますか?」
「なきにしもあらずだが、じっと待っているしかない。体力温存のため動かないほうがいいんだ。台湾まで流されていくのもオツなもんだ」
 ガイドは冗談ぽく笑みを見せながら言ったが、今、一大事なのだと充分理解できた。ガイドの言葉遣いのせいか、私は、パニック状態にはならなかった。
 しばらく時間がたった。
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海面にも遠くにも、何も見えない。
「うーん、このビデオは重い。ウェイトは取ろう」
 ガイドが言った。
「なぜ?」
「長引くかも知れない。体力温存、体力温存……」
 ガイドはそう言って、ビデオを落とし、ウエイトもボンベも落とした。そして、私のも外してくれた。それで、一気に、私の緊張は、ピークに達した。
 その時、1隻の小さな船が近づいてきた。漁船のようだった。
「何をしている? また遺跡でも見つけたのかね?」
 船から中年の色黒の男が声をかけてきた。ガイドと知り合いのようだった。
「迷子だよ。ワシのボートは港にも戻ってしまっんだ」
「そうかい。早く乗りなよ」
「ああ……」
 猟師に手をとられ、私が、先にボートに乗った。そして、ガイドが続いた。
 その漁船では、猟師とガイドは、あまり話をしなかった。スキューバのガイドというのは、失敗が許されない職業なのだ。潜る人の命を預かるような仕事であるのだ。そういう傷に、触れてはいけないと、無言のうちに、両者が確認したかのようであった。
 港につくと、大勢の人がいた。新聞記者もいた。海上保安庁の人が、私に何か聞こうとしたが、それをガイドが遮って、話をしはじめた。中身はよく聞こえなかったが、二人ともピンピンしているのだから大袈裟にしないでくれ、とガイドが言うのが聞こえた。
 それで、この事件は一件落着した。
 それから、冬の与那国島には何度も行った。ゆうゆうと泳いでいく数十匹のハンマーの群れは、海での圧倒的な底力を見せつけているように思えた。

 夏には、神子元に行くようになった。島には小さな灯台はあるが、普段は無人島だ。だが、天気のよい日は釣り人が大勢いる。神子元も流れは強い。ボートから飛び込んだら、ひたすら、海の川に身をまかせるしかない。ダウン・カレントという海流が上から下に流れている場所もある。そこに、はまってしまったかどうかは、エアの泡の行方を見れは分かる。泡が、上下左右に乱舞しているかのようになる。そんな時は、身体に着ているBC
にエアを大量に送り込みながら、ゲージで海面から何メートル下にいるか確認しつつ、その海流から外に出なければならない。海では一番危険な場所だ。
 海の流れに身を任せるのが快感なのか、ハンマーを見ることが快感なのか、分からなくなるほど、底の見えない海を流されるのは心地よいのだ。
 この神子元でも流され過ぎたことがある。ずっと沖の方まで行ってしまったのだ。だが、ここでは、シーズン中なら遭難の心配はない。何隻もダイビング・ボートが出ているのだ。そのうちのどれかがフロートに気がついてくれれば、近づいてきてくれて、自分のボートの客ではないと分かると、無線で連絡してくれるのだ。
 その時の我々のボートはかなり遠くにいるようであった。海面に流木のようなものがあった。それにしがみつくようにしながら、ボートを待った。すると、マンボウという大きな変な形をした魚が、こちらに向かってきた。じっとしていると、数十センチほどまでに、近づいてきて、また遠ざかって行った。あんな大きなマンボウを目の前で見たのは、その時だけだ。
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 ある日、ハンマーが見られるポイントは波が高く、潜れないというので、島影の流れのないポイントに行った。そこでは、色々な種類の魚が群れているのが見られた。その中に、チョウチョウウオの仲間が数匹いるのが分かった。本来はここにはいるはずのない魚だ。死滅回遊魚と言われているものだ。ほとんどが、沖縄付近の海から黒潮に乗って流されてきたものだ。冬は、ここでは海温が低すぎて死滅してしまう。知識としては充分に知っていたのだが、この目で見ると感動だ。人間が流されるなどいうのとはスケールが違う。沖縄から伊豆まで、途方もない距離を流されて来るのだ。だが、どのような選択基準によって、何年も沖縄の海で暮らすものと、冬を越せない場所まで流されてくるものとが、決定されているのかは不思議だ。
 生物には、自分たちの棲む領域を広げようとする特性がある。より遠くへと、より広くと、そういう行動をとるのだ。それは、無効分散と言われ、死滅するのを承知での行為らしい。種として、いつかその行為が有効になる可能性を探っているのだ。
 そんなチョウチョウウオを見ながら、人間はどうなのか、思いをめぐらすのも、スキューバ・ダイビングの面白さの一つだ。
 人間は、人工衛星を使って、宇宙へと視線を延ばしている。地球の周りに、宇宙ステーションをつくり、何日間かまでは、そこに居続けることができるようになった。月ならば、その大地に、直接、足跡を置くまでなった。これも無効分散のなしえるワザなのだ。ただ、チョウチョウウオと人間の違いは、死滅させないで、ちゃんと地球に戻れる知恵を得たことだけの差なのかも知れない。
 そういえば、歴史的に、冒険家と言われる人が、新しい大陸を発見した時代もあった。人間だけは、無効を、有効に、転換させてきたのだろう。それを考えると、人間とは、特別に、すごい生物に違いないとさえ思えてくるのだ。
 そんなことを考えながら、チョウチョウウオを、しっかりと観察した。いつまで、無効なことを、やり続けるのだろうと、同情心がわいた。
 陸に上がってから、インストラクターに声をかけた。
「チョウチョウウオの仲間が、わりあい多く見られますねえ」
 と私が言うと、
「そうですねえ。以前は死滅回遊魚などと呼ばれていましたが、最近は、冬を越して、そこに棲家を持つ魚が増えてきましたよ。ここ数年ですよ、南方系の魚がこんなにも見られるようになったのは。やはり急激な温暖化のせいでしょうねえ」
 と、インストラクターは言った。
 それを聞いて、私の頭は混乱した。こんなにも身近に無効分散が起きていて、それが有効化しているのか。魚には人工由来の温暖化さえ計算されているのか。それとも、人工なんていう、そんな例外など、この世にはないのか。
 私はレギュレーターの塩を洗い流しながら、小さな眩暈を覚えた。
 あの、与那国島やこの神子元の海で、私が遭難まがいに潮に流されたのは何んだったのか。事故ではなかったのか。あれも無効分散だったのかも知れないと考えたりした。だが、それ自体よりも、どのような法則があって、その対象が、選択されるのだろうかということに、恐怖感を覚えた。私の背後に誰かの目があるように思えた。振り返っても、楽しくおしゃべりをする、水着姿の若い人たちがいるだけだ。
 夕刻になって、港の先端から神子元島を眺めると、かすかに灯台の灯りが見え、海は、何も変わらずに、
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リズミカルに波打っていた。