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 畳の上で死にたい

 私はまだ六十四歳である。定年が六十五歳なので入社以来のサラリーマン感情が、そのまま続いているといった感じである。だが、同じ年齢の人でも、もう六十四歳だという人もいる。老後をのんびり過ごしたいと言うのだ。
 人は、それぞれに、人の数だけ苦労をしてきたのだろうと思う。私のように、能天気にすいすいとサラリーマン生活を続けてきたという人のほうが数少ないのかも知れない。
 職とは面白いもので、大方、同じ会社で最後まで勤め上げた人のほうが、経済的苦労は少ないようである。大きなプライドさえ持たなければ、きっと、サラリーマン生活は楽なのに違いない。あっという間の六十五年ではあったが。
 この歳になって、何を血迷ったか、「小説家志望者」となることを決心した。小説というのは、真剣に書けば書くほど、自分の人生のストリップ劇場になることだけは確かだと思うのだ。どんなに幻想的、空想的小説を書いても、そこに「私」が反映しないことは無いだろうと思う。私自身の小説観が、リアリズム主義で、人間と自然(地球)が反映してこその小説だと思っているからかも知れない。極論的には、すべての小説は、私小説だと、思い込んでいる節がある。私のことを書かないで、何を書くのかと思ってしまうのだ。
 人類という言葉がある。しかし私は一度たりとも、私自身を人類という言葉で考えたことはない。人類がどうなろうと知ったこちゃないと思うのだ。大事なのは、常に、「私」だけなのだ。問題なのが、その「私」が、というか、「私の視点」というか、そういうものが、揺らいでいるという点なのだ。なぜ揺らぐのか、ということも大方想像はできているのではあるが、その揺らぎを書くことが、私が小説を書くということなのだろうと考えている。
 我がサラリーマン人生、なんの文句もなく、いい人生だったと思う。サラリーマン生活をしていて、生活の苦労をしてこなかった者に、小説が書けるのか? という疑問符をつける仲間がいる。なんとなく言っている意味は分かるが、小説の基本は、「言語を構築していく技術」そのものだと思うのだ。中身は後から付いてくるものであるような気がする。貧富の差や年齢が、小説に影響しないとは言わないが、それが、小説の良し悪しの決定的要因とは思えないのである。人類とか、もっと大きく言って、生命とか素粒子とか、そういうものが、どうにも逃げられないほどに、「私」にまとわりついている。それらを思考するのに、貧富の差は、ほとんど影響しないであろうと思うのだ。
 だが、サラリーマン生活に不満はなかったが、我が人生には、なんと後悔の多かったことかと思えてならない。実際の生活面では、後悔ばかりである。「いざ」という時に、どうもヘマをしでかしてしまうのだ。いざという時ばかりではなく、他者の言っている言葉の重みを理解できないでヘマをしてしまったことも多い。
 父は十数年前に死んだ。八十八歳であった。死んだ日は一月一日である。なんとも意味深長である。母は一昨年の二〇〇八年の三月十三日に死んだ。九十三歳であった。年齢は数えである。その両親が、何回も同じことを言っていたのだ。それは、「畳の上で死にたい」ということであった。私は、どういうわけか、この言葉を、戦国時代の言葉と思っていて、戦争で死にたくないという意味ととらえていた。父は明治生まれ、母は大正生まれなので、そういう思い方もあるのかという程度に思ってしまっていたのだ。だが、今どき戦争でもあるまいと思っていたので、ほとんど気にもとめていなかったのだ。
 だが、父はに十ヶ月の入院生活をして、おそらく脳梗塞による痴呆症から肺炎を起こし、
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病院のベッドで、独り、死んだ。単なる痴呆症ではないと知ったのは、死んで、かなり経ってからのことだった。死ぬ一ヶ月前に、俳句を詠んでいたのだ。寝たきりだったのだが、当時の付き添いさんがノートに父の言うのを書きとめておいてくれたのだ。見えないはずの桑畑などの描写があって驚かされた。そして後悔のタネは、畳の上で死にたい、というのは自分の部屋で死にたいという意味だったことが分かったのだ。
 そんなことがあったから、母は我が家で看病をした。あまりボケもひどくはなかったが、死ぬ前日の夜に、食事を喉につまらせて青い顔になった。それをかき出し、医者を呼んで、とりあえずは事無きを得たが、翌日、まったく喋らなくなった。こちらから何かを言うと、返事はするのだが、言葉を発しなくなった。夜には、呼吸が荒くなったので医者を呼んだのだが巡回中だった。死ぬ数分前に、よく聞き分けられなかったが、バイバイというような言葉を発した。そんなことを言うだろうなあというような気丈な性格の母であった。医者が家のドアを開けた瞬間に、母は目を見開いたままになった。死ぬ直前に、もうすぐお医者さんが来るからね、と言うと首を横に振った。おしっこは? と聞くと首を横に振った。だが、何か言いたげだったが、物が言えないと自ら悟ったのか、いつも、あきらめる時にする、もういいよ、という表情をした。
 これも後から分かったことなのだが、母の言った「畳」とは、文字通りの畳だったのだ。ベッドはイヤだという意味あいのことをよく言っていたとヘルパーさんが教えてくれた。そういえば、膝が悪いのでポータブルのトイレをベッドの横に置いて誰かの手を借りて用を足していたのだが、時々、私に、蒲団で寝たいと言っていたのを思い出した。それがムリなことだということを、痴呆症気味の母に、分かるように説明をした覚えはない。私がダメだというので、いつもの、あきらめ顔をするだけだった。
 後悔先にたたず、である。人によって、同じ言葉でも、意味が違うことが、いくつもあるのだということを、今さらながら思い知らされるのだ。
 これから、私が小説に挑もうとしているのは、そんな後悔を書きたいのか、もっと違う世界を描きたいのか、ゆらぐ「私」に依っていくのであろうかと思っている。