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中山義秀賞
今回・第15回の中山義秀賞は、植松三十里(うえまつ・みどり)氏の「彫残2人」に、昨日、2010年1月28日、決まったと、私の妻の親戚である白河の中山家から電話があった。第13回では、「天地人」(火坂雅志)だった。
そんな話をしていたら、妻が、子どもの時、中山日女子さんと白河で会ったとことがあると言うのだ。よく、ヒメコさんという名は、白河の話題が出ると、あがっていた。私は妻の言うヒメコさんが、今日まで、中山日女子さんだとは、思っていなかった。中山日女子さんとは、確か、中山義秀の次女であったと記憶している。
「鎌倉極楽寺九十一番地」という、エッセイを書いている。実は、私も読んでいないので、さっそく、読んでみようと思っている。妻の系統なので、私は、あまり関心を寄せていなかったが、本当の中山義秀を語れる人が、もういなくなっていくような気がして、なんだか、今ごろ、中山義秀に興味がわいてきた。
妻に、色々と、よく聞いたところ、妻の両親の仲人役は、川端康成ご夫妻だったと言う。まあ、中山義秀との関係なら、そんなこともあるかなと思うが、もう両親とも他界している。
私は、若い頃には、血筋とか、血統とかいう言葉に見向きもしなかったのに、そんなことが、つまり、何かを、書き残しておきたいという気持ちが出てきたということなのだろう。歳とは不思議だと思う。
私の実の妹は、独文学者の高橋健二氏の長男と結婚した。そのころ、私はまったく小説を書いてはいなかったし、書くつもりもなかった。高橋健二氏に招かれてアソビに行って、松本清張氏など、今思えば、日本を代表する作家が、出入りをしていた。
私は、そういう面では、きわめて鈍感であり、ドジである。それは、出版社の編集者にも、よく言われている。「そういう環境なら、色々ご指導してもらったり、書くヒントをもらったりしておけばよかった」と言われる。時すでに遅しということが多い。
まあ、こんなことくらいのことは、どうでもよいと言えば、どうでもよいことなのだが、例えば、私は、私の母親の死の直前に、ドジをしてしまった。たった、1分くらいの時間が大きなドジとして後悔として残ってしまった。
私の人生、なんと、後悔の多いことばかりか、と思えてくることがある。それを、暗い思いで引きずることは無いのだが……。ただ、家族もいることだし、健康面など、注意深くありたいと、最近では、慎重に考えるようになった。