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 指定席

 新幹線に乗るのに、指定席を買った。60歳を超えた身体には、長時間、立ったままというのは、かなり疲れるし、お盆ではなかったが、学生たちは夏休みだろうから、新幹線も込むのではないかと思ったからだ。いつもの退屈な全国会議に参加する。
 列車内は空いていた。正午近くに、東京から大阪へ向かう列車にしては、その車両には、ほとんど人がいなかった。東京駅のホームには、人がおおぜいいたように見えたのに。
 これだけ席が空いているのなら、どこに座ろうとかまわないだろうと思い、適当に、我が陣地でもつくるがごとくに、ゆったりと、周囲に人のいない席に座った。
 新幹線や飛行機に乗るたびに外を見ると、多くの民家が見える。私は、そのたびに、不思議な気持ちに襲われる。自動車なら、民家があっても、そこの人たちが、どんな生活をしているか想像くらいはできるので、あまり気にはならないのだが、遠距離に行こうとする乗り物だと、何かを想像する時間もないせいか、私とは、まったく無縁の、関わりのない人が、無限に近いほどいることに、眩暈がしそうになる。
 その時ほど、人類というものがあって、あるいは、種というものがあって、「私」が、どうでもいいような存在に思われて、果てしないさみしさに襲われる。
 そういえば、昨日のテレビで、アフガニスタンやイラクで、自爆テロがあったというニュースがあった。一〇〇人くらいの人が死傷したと言っていた。それが、普段の我が生活に何の影響もなく、危機感も湧いてこないことを不思議にも思わなくなっている。
 それより、被害に遭った人たちよりも、他の人たちに被害を与えるために、自らの命を捨てるまでに至った人の精神状態に思いを巡らせて、なんだか悲しくなる。信念? お金のため? 強制? いずれにしても、私の思考能力を超えていて、想像できない。大量の圧倒的軍事力の行使は正義で、自爆テロなどという手段しかとれない人たちが、すべて不正義という短絡的な思考しかできない自分を発見して、考えるのをやめた。私には関係ないことだと割り切る。
 そんなことを、とりとめもなく考えて、流れる光景に、ぼんやり視線を置いていると、
「そこは、ボクの席だと思うのですが……」
 という声が聞こえた。通路に、若いサラリーマン風の男性が立っていた。
「ああ、すみません。ここは私の番号ではありません」
 私は、とっさに、そう答えた。私は、そう言いながら席を立った。周囲をみると、席はがら空きである。空いている席のどこにでも、適当に座ればいいのにと思いながら、私は、ふと、
「几帳面な性格なんですねえ」
 と口走ってしまった。すると、青年は、しっかりとした口調で、
「遺伝子のせいなんですよ」
 と奇妙なことを言った。
「今、遺伝子と言いました?」
「はあ、そうですが……」
 その青年は、すらりと背が高い。ネクタイにちょっと手を触れるようにして、べつに何事も起きてはいないというような、さっぱりとした顔をして言った。
「隣りに座っていいですか?」
 なんだか奇妙な物言いが気になって私は思わず言った。
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 どちらかというと小太り組であろう私のTシャツ姿は、青年とはアンバランスのように思えたが、通路側に腰を下ろした。青年は、私が腰を下ろしたと同時に、
「どうぞ」
 と言った。席の位置を気にしたわりには、隣りに誰が座ろうと、それには無関心のような言い方だった。
「あのですねえ、そのお、この席に座るとか、座らないとか、そんな、占いみたいなことで、遺伝しているとか、していないとか、何か特別なことが、分かるんですか?」
 私は、ただ思いつくまま聞いた。私は、糖尿病を患っている。父親もそうだった。祖父もそうだった。だから、どうも、遺伝という言葉に敏感になってしまう。
「いや、遺伝ではなく、遺伝子と言ったんです」
 青年の表情は、なんだか、とても、すがすがしい。何か、重大な決意の線上を歩いているかのようでもあり、一仕事終えた帰りのようでもあった。
「遺伝って、遺伝子のことでしょ?」
「まあ、親から子に遺伝子が伝えられて、具体的に発現した何らかの現象の総称を遺伝と呼ぶのでしょうかねえ。ボクが言ったのは、我々の行動のすべては、遺伝子によって、まあ、生まれつき決定されていると言ったんですよ」
「生まれつき?」
「生まれつき、という表現も正確ではないなあ。つまり、今の行動そのものが、遺伝子の働きだと思うんですよ」
「意味が分からないなあ……」
 私がそう言うと、
「そうでしょうねえ。ボクもよく分からずに言っているんですよねえ。でもね、ボク流の考えによるとですね」
 彼は、そう言いながら、どっとイスに腰を深くして、話を続けた。
「人間は約六十兆個の細胞から成っている。その細胞ひとつひとつに遺伝子が組み込まれていて、遺伝子が働かないと、何もできない。つまりですねえ、ここはボクの席だとチケットを確認したのも、脳細胞の遺伝子が働いて、そうさせた。ここに座るべきだと遺伝子が指令した。まあ、これだけ空いているのだから、どこに座っても、何んの問題もないでしょうが、そうしなかったのも、遺伝子がそう働いた。そういう意味です。ちょっと、つまらん話ですがねえ」
 青年は無表情に近い顔で、こちらをよく見ずに言った。
「私は、自分の行動を、そんなふうに考えたり、分析したりしたことはないなあ」
 私がそう言うと、
「ボクだって、そんなこと考えて行動しているわけではないんですよ。ただ、なぜ? と聞かれると、そう思いつくので、そう言ったまでのことです」
 青年の目つきが、やや真剣になったように思えた。
「ちょっと、質問ですが、いいですか?」
 私は青年の顔色を窺いながら言った。青年はいやがるような節は見えなかった。
「人間の行動を、そんなふうに、極限的に、いつも考えているのですか?」
 私がそう言うと、青年の表情が、ゆるんだようになった。
「ボクの言いように、少しは賛同してくれたのだと思うのですがどうでしょう。まあ、それはどうでもいいとして、
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たとえば、遠い昔に、人類は、まったく交流のない、アフリカとアジアにいたのに、同じ時期に、ほぼ同じ行動をとった。それも、そう簡単なことではなくて、天体観測による時間の測定なんですよ。まったく狂いはなかった。その狂いはなかったということが重大ではなくて、天体を観測したという行動が同じだったということが、重大なことだと思うんですよ。人類の遺伝子が同じだったから、そんなことが起きた。何ら情報交流がなくて、そんな高度の行動ができたのは、たまたまの偶然ではなくて、人類の遺伝子が同じで、つまり、遺伝子のキャパシティの範囲で、人類は行動が規定されていると思うんですよ。だからね、人類の未来も、無限ではなくて、なんらかの遺伝子の定めによる限界がある。そう思うんです」
「人の行動は偶然ではなくて、遺伝子のキャパシティの範囲で必然的行動をとると?」
「そう思うんですよ。人が石に躓いて転ぶのも遺伝子のせい」
「人と人の出会いも?」
「そう、それこそ、遺伝子に仕組まれた、企みみたいなもので、ここで、あなたと私が出会ったのも、まさに遺伝子がなせるワザだと思うんです」
「何かの本で読んだことがあるなあ、人の出会いは、遺伝子がもたらしているというようなことを言っている学者の本を」
「まあ、それらのすべてが、仮説ですよね。これがこうと、はっきりしているのなら、科学なんてものは必要ない。仮説の積み重ねが、いつか、ほんとうらしく思えてくる。それが科学でしょう。人間を、細胞とか、遺伝子とか、ゲノムとか、DNAとか、根源を探っていくと、人間全体とは、まるで違った解釈をせざるをえなくなる。DNAだって、塩基という分子の組み合わせからなっている。それが化学変化を起こす。それが遺伝子が働くということでしょう。そんなふうに考えると、この地球という環境で、遺伝子を構成する物質の化学変化が、どのように働いたか、ということが、生命の活動と言えると思うんですよね。物質の化学変化だから、ある意味、未来が予測できる。そんなことが当たり前のように、医学の世界では応用されている」
 青年の物言いは、得意げにということからはほど遠い、あきらめに似た表情に見える。面白げでもあるような、淋しげでもあるような、なんとも言いようのない表情だ。
「あなたは、お医者さんですか?」
 私は、なんだか普通の人ではないように思えて聞いた。
「いや、普通の会社のエンジニアですよ。最近は、遺伝子とか、脳とか、学者が、色々な分かりやすい本を出しているので、それらの、我流の理解の範囲での受け売りです」
 青年は、社会生活と、そんな生命の本質的なことと、どこかで、自分なりに区切りをつけているのだろう。そうとでも考えなければ、すべては遺伝子のせいなどと言って、社会生活が営めるはずはない。科学と現実社会とのギャップは、何らかの形で、それこそ、遺伝子の企みみたいなもので、暗黙の了解により、埋められているように思えてきた。
「ところで、遺伝子的には、あなたと私の違い、とは何によって決まりますか?」
 私は、ちょっと思いついたことを言ってみた。すると青年は、思いの外、真剣な表情になった。
「いやあ、とても難しい質問ですよねえ。たとえば、あなたと私の違いは、ゲノムつまりDNAの並びの違い、と言うこともできますが、じゃあ、DNAが同じ一卵性双生児の人は、私が二人いるということになってしまう。そうじゃないですよね。それぞれが、一個の人間でしょ。『同じ』ということは、DNAが同じと言うだけで、個性が同じとまでは言えないですよね。
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むしろ、まったく違う人間と言ったほうが正しいでしょうねえ。さきほどは、人類は、遺伝子が共通しているから、その範囲内で同じことをすると言っておきながら、まったくDNAが同じでも、個性は違うというのは矛盾するかも知れませんが、そんなもんなんです。同じとか、ゼロか、無とか、定義する前提がないと、はっきりしないものは、いっぱいありますよねえ。あなたの質問に答えられる能力は、ボクにはないということだけは、はっきりしていますがねえ……」
 青年が、はじめて、苦笑いのような表情をみせた。
 そんな話をしているうちに、大阪についた。私はそこで、降りた。
 さっそく会議に参加した。ある商品のマーケティングリサーチの会議だ。
「この近辺の人口、家族構成はこうなっており、生活レベルはこの程度なので、心理的には、人々は、こういう動きをすると思われます」
 いつもの、紋切り型の説明が聞こえた。
「それらの人々の遺伝子を、どのように操作すればよいか、それが一番重要なことではないのか」
 と心で思いながら、そんなことを言うほど、私には社会性から外れているわけではなかったので、じっと言葉を呑み込んだ。