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 格子状の門の前で、僕は行ったり来たりを繰り返していた。指定された家はここに違いないけど、どうしてもこの冷たい門に拒まれている気がするのだ。
 敷地は周辺の住宅と比べても、いくらか広い。門から玄関までは飛び石が敷いてあり、車が二台ほど入るガレージが脇にある。車はどこから出るのだろうと思った。家は高い塀で囲まれていて、出入り口はどうやらこの門だけだ。でも、今僕がうろうろしているこの道は、大通りから少し離れた裏路地で、車一台通るか通らないかという道だった。これだけの細い道だと、門から出た車は曲がり切れないのではないだろうか。
 チャイムを押すべきかどうか、僕は迷っている。改めて考えるまでもなく、チャイムを押さなければならない。そして約束をしていた進藤です、とドアフォン越しに挨拶をして、中に入れてもらわなければならない。時間はそろそろ約束の午後三時だ。
 意を決して、チャイムを押した。息が詰まりそうな沈黙が続いた後、
「どなた?」という女の声がドアフォンから聞こえてきた。ゆったりとした響きのある声だ。
「約束をしていた進藤といいます」
「どうぞ」
 そう告げるとドアフォンが切れた。すると、近くでガンという金属が衝突したような音が鳴った。どうやら門の鍵が開いたようだ。
 玄関にはさらにチャイムがあり、それを押すと中から、メガネをかけた神経質そうな中年の男が姿を現した。
「君が家庭教師の進藤君かい」
「はい、進藤です。よろしくお願いします」
 中年の男は手で中に入るようにと指示した。どことなく威圧的で客人をもてなすときの態度には見えない。
 玄関は大理石のタイルが敷かれていた。これが全て天然大理石だったら、相当高価なものだ。僕の履いている靴はディスカウントショップで買ったローファーで、埃がこびりついてツヤもなくなっている。僕は泥棒のように忍び足で歩いた。
 シューズボックスの上には陶器の花瓶が置かれていて、いくつかの花がさしてある。陶器の花瓶は焦げたような薄汚れた茶色だが、これも高価なのかもしれない。並びには写真立てがあり、山の風景の写真が飾られていた。雪をかぶった高い山を背景に、数人の日焼けした精悍な顔立ちの男たちが白い歯を見せて笑っている写真だった。その中の一人が、今僕を迎えに来た男のようだ。顔つきは一緒なのに、写真の中と実物は雰囲気がまるで違っていた。
 僕が通されたのはリビングだった。ガラスのテーブルが中央に置かれ、黒い革のソファがテーブルを挟んで向かい合っていた。庭に面した窓から、梅雨空の鈍い光が差し込んでいる。棚の上には写真立てがあった。どんな写真が飾られているかは、遠くて分からないが、どこかの町の景色のようだ。隣には鳥をかたどった置物があり、その横に賞状が立てかけられている。上には絵の具を撒き散らしただけのように見える抽象的な絵画が掛けられていた。
 ソファには少年が一人座っていて、その隣に車椅子に乗った中年の女がいた。女は右手を広げて、僕をソファに座るように促した。僕は少年と向かい合うようにして座った。少年は僕を一瞥したが、すぐに視線をはずし、天井を見たり、壁のほうを向いたりしている。
「今日からあなたにはこの子の家庭教師をしていただきます。
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私はこの子の母親で高宮美智子といいます。孝雄、自己紹介しなさい」
「孝雄です」
 孝雄と名乗った少年は、やはり僕には興味がない様子で、あさっての方向を向いている。
「進藤祐一といいます。孝雄君、よろしくね」
 僕は自分の一番の愛想笑いを作ったが、孝雄はそれすら見なかった。気がつくと先ほど僕を案内した男はリビングからいなくなっていた。
「この子にはいい高校に入ってもらいたいの。中学受験のときは、付属中学を受けさせたんだけど、不合格だったわ。今度こそ付属の高校に入ってほしいと思って、家庭教師をつけようと思ったの。この子は英語が苦手だから、まずは英語の成績をあなたに上げてもらうわ」
「分かりました。僕は化学を専攻していましたので、他にも理系の科目なら大抵教えられると思います」
「それは素晴らしいわね」
 そういうと、美智子はかすかに顔を曇らせたように見えたが、すぐにまた元の穏やかな表情に戻った。
「それじゃあ、早速この子の部屋に行きましょう」
 のんびり雑談をしている暇はないという具合に、美智子は車椅子を起用に回転させてリビングを出て行く。
「この子の部屋は二階にあります。私はエレベータで先に行ってますから、あなたは階段を使ってください」
「どこか具合が悪いのですか」
 僕は美智子の乗っている車椅子を見ながら言った。
「具合が悪くないのに、車椅子を使う人っているかしら」
 美智子は丁寧にそう言うと、エレベータに乗り込んだ。
「じゃあ、僕たちも上に行こうか」
 孝雄に向かって言うと、孝雄は渋々僕の後についてきた。僕たちは階段を上って二階に上がった。
 階段を登りきったところにエレベータがあり、美智子はそこで待っていた。僕たちが上がってくると、美智子は二階のある一室に僕たちを連れて行った。
「ここが孝雄の部屋。後は任せるからよろしくお願いね。孝雄、先生の言うこと聞いてしっかり勉強するのよ」
「分かった、しっかり勉強する」
 孝雄はそう言うと、自分の部屋に入っていた。
「失礼します」と言って、僕も中に入った。
 部屋はきれいに整頓されていた。勉強用の机が壁に張り付くように置かれていて、本棚には様々な種類の本が、薄い紙一枚の入る余地もないくらい完璧に収納されていた。木目調の古いタンスがあり、横の狭い隙間に、テレビがあった。テレビはちょうどこの隙間に合わせて作られたようにぴったりとサイズが合っていた。モデルルームの子供部屋のようだ。
「随分きれいにしているんだね」
「叔父さんが勝手に片付けるんだよ」
「オジサン?」
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「さっき見たでしょ。メガネの人」
「あの人は孝雄君の叔父さんなんだね。お父さんかと思ったよ」
「お父さんはいない」
「いないって、どういうこと? 今お仕事中かな」
「違うよ、二年前に死んだんだ」
 外国で起こった事件を伝えるニュースキャスターのように言った。孝雄は本棚からいくつかの参考書を見繕って、引っ張り出している。
「そうなんだ。それは悪いことを聞いたね」
「いいよ、別に。それより、勉強するんでしょ。早く始めようよ」
 孝雄は机の上に参考書を並べて、どれを使うか、僕に選ぶように促した。僕は順番に手に取り、ぱらぱらとめくって、一番簡単そうな参考書を選んだ。
 孝雄は思ったよりも飲み込みが早く、確かに英語は苦手そうだったが、それでもこの歳にしては平均以上の実力を持っているようだった。一人で参考書を読んでいき、問題を解き、思い出したように僕に質問をした。僕はそれに答えるだけだった。昨夜は色々と勉強方について考えてきたのだけど、発揮しないまま終わりそうだ。
 ほとんど孝雄一人で勉強を進め、僕はただの監視役となって二時間が過ぎた。
「そろそろ終わりにしようか」
 僕が言った。何もしないでじっとしているのが、そろそろ耐え難くなってきていた。
「いいけど、今帰ったらお母さんに怒られるかもしれないよ」
「何で? もう十分勉強したでしょう。僕はあんまり役立ってないけど」
「本当はお母さんにとって、勉強なんてどうでもいいんだよ。僕の面倒を見させるのにお兄さんを雇ったんだよ。だから今帰ると、きっと怒られると思うよ」
「僕は家庭教師なんだよ。勉強が終わったら帰らなければならない」
「違うよ。家庭教師だけど、そうじゃないんだ。せめてお母さんが帰ってくるまでは家にいないとダメだよ」
「お母さんは家にいないの?」
「たぶんね。また叔父さんと出かけているんだよ」
 お母さんが叔父さんと出かけているから帰ってはいけないというのは、いったいどういうことなんだ。
「とにかく、僕の言ったとおりにしてよ。そうすれば大丈夫だから」
 孝雄は参考書をたたむと、くるりと椅子を回転させて、立ち上がった。孝雄は僕の目の前に立って、僕を見上げた。
「分かったよ。ちょっとまだよく分かっていないけど、孝雄君の言うとおりにする。お母さんが帰ってくるまではここにいよう。勉強ばっかりじゃつまんないからゲームでもするかい」
「ゲームだってつまんないよ」
 孝雄はそういうと部屋を出て行った。部屋に残された僕は、どうすればいいのだろうと考えたが、孝雄の後についていくことにした。孝雄の面倒を見るのが僕の仕事ならば、ずっと側にいるべきだろうと思っただけだ。言われてみると、この仕事は他の家庭教師の仕事に比べると、驚くほど高い時給が支払われることになっていた。それはきっとそういうことなのだ。
 それならそれでいい。
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あまり自慢することではないけど、僕には無駄な時間というものが山のようにあった。無駄な時間をゴミのように貯めていけば、島の一つくらいはできそうなくらいだった。ゴミを給料に変えていると思えばいいのだ。
 孝雄はキッチンでお茶を入れていた。そういえば、この家に来てから、何も食べていないし、お茶も振舞われなかった。
「緑茶と紅茶だったらどっちがいい」
 孝雄が僕に聞いた。
「そうだな、緑茶をもらおうかな」
 家の中には僕たち以外の人の気配がなかった。美智子は孝雄の言うとおり、外出しているようだった。あのメガネをかけた神経質そうな男もいない。
 孝雄はトレイに二つのマグカップを載せると、キッチンを出た。僕は孝雄の後についていく。
 自室に戻った孝雄は折りたたみ式の簡易テーブルを部屋の中央にセットすると、カップを置いた。
「お母さんはいつごろ帰ってくるの」
「わかんないけど、大体九時か十時ごろだよ」
「九時か十時って、後四時間もあるよ。それまで僕にここにいろっていうのかい」
 孝雄は熱い紅茶を冷ましながら頷いた。四時間も何をしたらいいのか、見当もつかなかった。僕は部屋の中に、何か時間をつぶせそうなものはないか、一通り見回してみた。
「何もないよ。ゲームもないし、コンポもない。パソコンはこの部屋には置いてないけど、下に行けば使えるから使ってもいいよ。でもお母さんがいないときだけね」
「なんでお母さんがいないときだけなの」
「叔父さんにそう言われたんだ」
 パソコンぐらい、いつでもやらせてあげればいいのに。僕は思った。あんまりやりすぎると、お母さんに怒られるのだろうか。
 これが毎日のように続くのかと思うと、いささかうんざりしたが、まあ、よしとしよう。ちょっと勉強を教えるだけで、いい給料がもらえるのだ。僕は贅沢を言える立場ではない。
 僕はこの春に大学を卒業した。就職はできなかった。成績が良いほうではなかったし、それほど力を入れて就職活動をしていたわけでもなかった。自分がやりたいことが見つからなかったので、あえて就職しなかったといえば聞こえはいいのかもしれないけど、実際のところ、何もしたくなかったのだ。社会に出たくないし、仕事もしたくないし、大学に残って研究もしたくない。どうやったら仕事をしないで生きていけるのだろうと、そればかり考えていた。
 贅沢もせず、細々と暮らしていたが、すぐに貯金がなくなって、アルバイトを始めることにした。雑誌やインターネットで探していたが、中々いいアルバイトが見つからなかった。だから電信柱に貼りつけられた求人広告を見つけたときは、人目も気にせずに小躍りした。それは英語の家庭教師の募集広告だった。時給は五千円、大学生以上で、英語が堪能な人。それが条件だった。堪能とまではいかないけど、学生時代には英語で書かれた論文なども読んでいたので、英語は得意だという意識はあった。
 よくよく考えてみると、これは素晴らしい仕事なのかもしれないと思い直した。英語は嫌いではないし、何より楽だ。募集広告には約二時間の授業と書かれていて、幾分それと話は違ってくるけど、ただぼうっと帰りを待つだけなら頭の悪い番犬にだってできる。それに帰ってきたら、
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母親に聞いてみればいい。授業が終わったら帰ってもいいですか。家庭教師の仕事なんだから、授業が終わったら帰っていいに決まっている。もし、孝雄の相手をしてやってくれと言われたら、話し相手でも遊び相手でも喜んでなろう。
 それにしても、この家の静けさは何だろう。壁という壁が音を吸収する材質で出来ているかのようだ。孝雄と僕が二人で黙ってお茶を飲んでいるだけなのだから、静かなのは当たり前だけど、もっと別の種類の静寂のように思えた。僕のボロアパートにいたら、嫌でも外の音が聞こえてくる。子供たちのはしゃぐ声や、車が通過するときの振動、飛行機が上空を飛べば、アパート全体が揺れているような気さえする。でも、ここには音もないし、振動もなかった。窓の外はいつものように平穏な住宅街が広がっている。
 孝雄は落ち着きなく、首をあちこちにひねっている。何かを探しているようにも見えるし、首が凝っているだけにも見える。
「どうかしたの」
 僕が聞くと、孝雄は鶏のように機械的に首をこちらに向け、
「何が?」と言った。
「いや、別になんでもない」
 これが孝雄のごく自然な振る舞いで、僕たちが自分でも気づかぬうちにまばたきをしたり、鼻をすすったりするのと同じく、孝雄は首を回すのだろうと思うことにした。
 ゆっくりと時間をかけて飲んだつもりだったけど、気がつくとコップの中は空になっていて、仕方がないのであらゆる角度からコップを眺めたり、意味もなくコップの中に息を吹きかけてみたりした。それだけではどうにも間が持たなくなり、僕は孝雄に聞いた。
「孝雄君はいつもお母さんがいないとき、何をしているの」
「テレビを見たり、インターネットやったりしてるよ。でも、いつもは学校に行っているから、夏休みに入ってからは、何もしてない時間のほうが多くなった」
「何もしないのって、結構退屈じゃない? 僕も大学を卒業してからは何もしてなかったんだ。退屈だから何かしたいんだけど、何かしようと思ったら億劫になって、結局何もしない。こういう気持ちって分かる?」
 全く分からないという具合に、孝雄は首を横に振った。
「今気がついたのだけれど、話をすることはそれほど億劫じゃないんじゃないかな。よかったら何か話をしようか」
「話ってなんの話?」
「そうだな、例えばこういう場合って、まずお互いのことを知るために、趣味の話なんかするんじゃないかな。だって、僕たちは初対面のわけだし、お互いのことは何も知らないだろう。孝雄君、趣味は何かあるの」
 孝雄は腕を組み、頭をひねって考え始めた。そしてようやく口を開いた。
「魚が好きだな。といっても食べるほうじゃないよ。見るほう。図鑑とかインターネットで色々な魚の写真を見るんだ。ときどき水族館に行って、一日中魚を眺めていることもある」
「そうなんだ。どんな魚が好きなの」
「やっぱりジンベエザメ。今生きている魚の中で一番大きい魚なんだよ。体中に星みたいな模様があって、海の中を泳いでいると、銀河が宇宙の中を動いているように見えるんだ」
「へえ」
 どういう経緯でやっぱりに繫がるのかよく分からなかったが、
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とにかく僕は驚いてみせた。あんまり興味をそそられる話題ではなかったけど、自分から話しかけた手前、興味のない振りは出来なかった。しかし、孝雄はそこで話を止めた。この子はとても察しがいいらしい。
「本物を見たことあるの?」
 僕はなおも食い下がって話を広げようとする。
「写真でしかない。見る?」
 僕がうなずくと、孝雄は立ち上がった。どこに行くのだろうと思いながら後についていくと、孝雄は一階に降り、リビングの隣の部屋に入っていった。そこは狭い四畳ほどの部屋で物置のように色々なものが詰め込まれていた。ただでさえ狭いのに、詰め込まれたダンボールや何に使うとも知れないガラクタによって部屋のほとんどのスペースが占拠されていて、人がゆっくりと休憩して物思いにふけるには、いささか無粋でもあった。
 奥には会社で使うような簡素な机があって、その上にも古い雑誌や、トイレットペーパーなどが積まれていた。真ん中に一台のデスクトップパソコンがひっそりと置かれている。
「この中に、インターネットで見つけてきた、色々な魚の写真を保存してあるんだ」
 孝雄は言った。
「ここは物置部屋なの」
「今はそうなっちゃったけど、昔はお父さんが仕事で使っていた部屋なんだ。お父さんが死んでから、誰も使う人がいなくなって、物置みたいになっちゃったんだ。このパソコンもお父さんが使っていたものだよ」
「お父さんの形見っていうことだね。お父さんとは仲がよかったの」
「まったく」
 孝雄はきっぱりと断定的に言った。僕はそれ以上聞いたらいけないのだろうと思って黙っておいた。
「ほらこれ見て」
 狭い中、孝雄の肩越しにモニターを見た。画面一杯にジンベエザメの姿が映し出されていた。これがジンベエザメなのか。言われてみると、こんな姿だったような気がする。有名な魚だから、どこかでちらっと目にしたことはあるのだろう。でも、生まれて以来、ジンベエザメに注意を払ったことは一度もなかった。ジンベエザメに星のような文様があるとか、横長の平べったい口を持っているとか、初めて認識した。
「他にも色んな魚がいるんだよ。見る?」
「もちろん」
 孝雄は次々と写真を開いていく。僕は見るともなく見ていた。びっくりするような変な形をした魚や、魚ではないけど鯨の写真などもあった。どうやら写真の数は千を越えているようだ。よくこれだけ集めたものだと、広い海で育まれた多様な生命の神秘より、そちらのほうに感心した。
 孝雄は僕をほったらかして写真に熱中し始めたので、僕は部屋の中をぐるりと見渡してみた。そこはまるで家庭における不要なもの見本市のように、ありとあらゆる不要なものがあった。ドライバーが二本しか入っていない工具箱や折れた釣竿、通信販売でよく見かける包丁セットや、棒の切れ端、自転車の車輪、屋根瓦もあった。
 その不要なものの更に向こう側に、本棚があった。本棚にはちゃんと本が納まっていた。いくつかの本の背表紙が、がらくたの隙間から垣間見える。ほとんどが学術本のようだった。英語のタイトルのものもいくつか見受けられる。
「あのさ、答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど、孝雄君のお父さんは、学者さんだったの」
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 孝雄は振り返って僕を見上げた。
「よく知らないけど、石の研究をしてたんだ。主任だったんだよ」
 主任がどれほど偉いのかもわからない。
「お父さんはここで石の研究をしてたのかな」
「そうだよ」
「じゃあさ、そのパソコンには、お父さんの研究データなんかが入っているんじゃないの。機密データがあるかもしれないよ」
「そんなことないよ。お父さんが死んだ後、僕がこれを使い始めたときにはもうデータはなかった。初期化されていたんだ」
「初期化されていた? お父さんが初期化したの?」
「叔父さんだよ。叔父さんは几帳面なんだ。僕がこのパソコン使いたいと言ったら、初期化しちゃったんだ」
 僕は手を隙間に入れて本を引っ張り出そうとした。しかし、分厚い学術本はその狭い隙間を通るほど小さくはなかった。諦めて元に戻す。
「ねえ、魚見ないの」
「見るよ」
 僕はもう一度モニターに視線を移した。モニターには大型の深海魚の姿が映し出されていた。こんな生き物が海の底にはいるんだな。それにしても、なぜ初期化したのだろう。もし重要なデータがあったのならば、せめて初期化する前にバックアップをとっておくべきだ。
「話戻るんだけど、初期化した時、叔父さんはどこかにバックアップをとったのかな」
「知らないよ」
 孝雄が知っているわけもないか。それに持ち主がいなくなったのだから、バックアップをとる必要もないのだろう。それより、叔父さんは何でこの家に出入りしているのだろう。
「ちょっと聞いてもいいかな」
「なに」
「あんまりこの家のことに口を出すべきじゃないって分かっているんだけど、気になることがあるんだ。孝雄君のお母さんと叔父さんは二人でどこに行ってるんだろう」
「デートだよ、たぶんね」
「デート? お母さんと叔父さんは付き合ってるの?」
「そうなんじゃないかな。直接聞いたわけじゃないけど、僕見ちゃったんだ」
「なにを」
「夜中いきなり目が覚めちゃって、なんか眠れなくなったんで、何か飲もうと思ってキッチンに行ったんだ。そのときお母さんと叔父さんがリビングのソファで、裸で抱き合ってた。そういうのって恋人同士じゃないとしないことでしょ」
 蛇口をひねったら水が出ましたという感じで、当たり前のことのように言った。裸で抱き合っていたら恋人同士と考えるのは当たり前のことだけど、その恋人というのが自分の母親と叔父さんだった場合、当たり前のことではないような気がする。
「随分冷静なんだね」
「どうでもいいんだ。そんなことは」
「叔父さんって、お父さんの兄弟?」
「うん。
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弟。お父さんが死んでからよくこの家に来るようになったんだけど、僕はあんまり好きじゃない」
 前後の事情はよく知らないけど、僕だって現時点ではあんまり好きじゃない。
「デートの邪魔になるから、僕を誰かに押し付けようとして、お兄さんを雇ったんだよ。家庭教師なんて嘘だよ」
 なるほど。どうやらこの仕事、思ったより簡単ではないかもしれない。色々と気を使う局面がありそうだ。気を使うということは、僕のたくさんある苦手分野のうちの一つだ。
 しばらく僕たちは魚鑑賞を楽しみ、また孝雄の部屋に戻った。それでもまだ七時だった。お茶を飲みながらテレビを見ていた。後二時間以上、待っていなければならないのか。僕はうんざりしたが、意外にも美智子と叔父さんは七時半ごろ帰ってきた。
「孝雄、孝雄」
 下の階から美智子の呼ぶ声がする。
「帰ってきちゃったよ」
 孝雄はいくらか残念そうに言った。僕たちは下の階に行った。
「あら、進藤さん、まだいらしてくれたのね。孝雄の相手をしてくれていたの」
「ええ、まあ、そんなところです」
 車椅子の後ろには叔父さんが神経質そうにメガネを光らせて立っている。二人はどこかしら晴れやかな、すっきりとした表情をしている。
「よかったわ。私たちは用事があって、家を開けることが多いから、進藤さんが家にいていただけるととても安心だわ。これからもよろしくお願いしますね。その分多めに給料は払いますから」
「ありがとうございます」
 美智子は満足そうに微笑むと、車輪の音をフローリングに響かせて、廊下の奥へ消えていった。叔父さんは少し遅れて美智子の後を追った。孝雄はリビングのソファに座り、テレビをつけた。どうやら僕の役目はここまでのようだ。僕は玄関で、それではまた、と一人で言って外に出た。
 
 翌日、僕は三時前に門の前について、やはり門の前で中の様子を窺った。ガレージのシャッターが半分ほど開いていて、車のフロント部分が覗いていた。車のことは詳しくないけれど、質感や光沢を見ると、それは高級車のようだった。
 この日もあまりぱっとしない天気だった。周囲の住宅街も静まり返っていた。誰もが家の中にこもり、いつ梅雨が明けるのかひっそりと見計らっているようだった。
 チャイムを押すと、ドアフォンから孝雄の声が流れてきた。
「入っていいよ、開いているから」
 僕は門を開けて中に入った。玄関で僕を出迎えたのは孝雄だけだった。
「お母さんはいないの」
「うん、もう出かけた」
「叔父さんと一緒に?」
 当然でしょう、という具合に、孝雄は大きく頷いた。玄関に置いてあるシューズボックスの上をちらりと見ると、昨日とは違う花がさしてあった。きっと几帳面な叔父さんが日々新鮮な花を調達してさしているのだろう。ふと見ると、その隣にあったはずの写真立てがなくなっている。昨日は確か、山の写真が飾ってあったはずだ。
「ここにあった写真、
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どうしたか知ってる?」
「写真? そんなものあったかな。あんまり気にしたことないから、わかんないよ」
 これも几帳面な叔父さんが片付けたのか。でも、写真立ての曇りを拭き取るとか、角度を調節するとか、そういう行為を几帳面と呼ぶかもしれないけど、片付けるのは几帳面とは違う行為だ。
 孝雄は二階に上がる前にキッチンでお茶を入れた。部屋に入ると、テーブルを出してきて、そこに僕一人分のお茶を置いた。つまり、僕はここでおとなしくしていろということなのだろうと思って、おとなしくお茶を飲むことにした。
 孝雄は一人でしっかりと勉強ができた。赤の他人が横にいるにも関わらず、だ。本当は家庭教師などいらないのだろう。あるいは、誰かに見張られていると思うと勉強がはかどるのかもしれない。ともかく、何もしないで金を稼ぐというのは、案外肩身が狭いことだ。給料は、それなりの仕事をして初めて貰うものなのだと、至極当たり前のことに今更ながら気づく。
 孝雄が勉強にいそしんでいる間、僕はやることがないので、こっそり部屋を出た。孝雄は気づいているのかいないのか、こちらを見ることもなく、参考書にかじりついている。
 気になっていることがあった。玄関からなくなった写真立てのことだ。写真立てがなくなったのも気になるけど、そもそも叔父さんの写真が飾ってあるのがおかしなことではないか。
 誰もいないのをいいことに、写真立てを探し回った。とはいっても、リビングと隣り合ったあの物置部屋より向こう側に続くいくつかの部屋には、しっかりと鍵がかかっていて、もとよりそちらの部屋に入るつもりはなかったのだけど、興味本位で試しにドアノブを回してみて、開かないことを確認した。
 物置部屋にあるのだろうと思って中に入り、あたりを見回したが、物が乱雑に積み上げられていて、小さい写真立てがどこかの隙間に紛れ込んだら探しようもない。隙間を覗き込んだり、手を突っ込んだりしたが、やはり見当たらなかった。
 そういえば、リビングにも写真立てがあったな。僕は昨日、この家に入って初めて通されたリビングを思い出した。僕が座った場所の正面に棚があり、その上に写真立てがあった。そちらはどうなっているのだろうと、リビングに行ったが、ここの写真立てもなくなっていた。一日で二つの写真立てがなくなっている。これはとても妙なことのように思える。
 一通りリビングを見渡して、やはりどこにも写真立てが飾られていないことを確認すると、また部屋に戻った。孝雄は首をくるくる回転させているところだった。勉強を中断して首を回転させたい気分なのだろう。
 僕はテーブルの横に座り、ぼんやりと孝雄の後姿を眺めていた。いったん集中し始めると、孝雄は自分の世界に入り込んで、他に何も目に入らなくなっているようだった。口元を見ると、ぶつぶつと独り言を言っているかのように動いていた。英語の単語を繰り返し口に出して、暗記しようとしているのだろう。
 二時間が経過した。誰も見張っているものがいないわけだし、そもそも勉強しなくても文句は言われないのだろうけど、孝雄は律儀にきっちり二時間分勉強して、机を離れた。紅茶を入れてくると言って一階に行き、すぐに戻ってきた。
「僕が勉強しているとき、お兄さんどこ行ってたの」
「あれ、気づいてたの」
「視界の中で誰かがいなくなったら、
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鈍感なカバだって気づくよ」
「さっき、玄関にあった写真のこと言ったでしょ。あれを探してたんだ。といっても鍵をこじ開けて中に入ったり、引き出しの中をあさったりはしてないよ。あの物置部屋にあるかなと思っていってみたんだけど、なかったよ」
「そうなんだ。僕よく覚えてないんだけど、どんな写真だったっけ」
「君の叔父さんと何人かの仲間たちの写真だよ。背景は雪山だったな」
「雪山? ああ、思い出した。あの写真だね。あんまり覚えてないけど、あれは叔父さんの写真じゃないよ。たぶんお父さんだと思う」
「お父さん? いや、でも間違いなく叔父さんだったよ。そっくりだった」
「そりゃそうだよ、双子だもの」
「え、そうなんだ」
 道理で。肌の色艶も違ったし、表情も叔父さんより豊かだったわけだ。
「お父さんが研究で行ったんだよ。あれは南アルプスに行ったときの写真なんだ。まだ僕が小学校の四年生くらいのときだったかな。素晴らしいアイデアを思いついたとか言って、興奮してた。帰ってきたらまたすぐどこかに行っちゃったんだ。論文を書いて賞をもらったんだよ」
「それと、さっき気づいたんだけど、リビングにあった写真もなくなっていたんだ。それもお父さんの写真かな」
「どうだったっけなあ。ずっと昔からあるから分からないけど、少なくとも叔父さんの写真ではないと思うよ」
「ちょっとリビングで見てみようよ」
 僕はそう言うと、面倒くさそうに渋っている孝雄を無理やり連れ出してリビングに向かった。
「確かに昨日はここにあったはずなんだ」
「ここの写真はどこか外国の写真だったはずだよ。よく知らないけど、お父さんが撮ってきたやつだと思う。スウェーデンかノルウェーじゃなかったかな。何回か行ってたはずだから」
 どちらの国も、僕にとっては土星や木星と同じくらい遠い場所だった。世界を股にかけて飛び回っている人たちの話を聞くと、自分がいかに小さな場所で右往左往しているのか再認識する。
 いったい写真はどこにいったのだ。母親は立ち上がれないようだから、シューズボックスや棚の上にある写真を片付けるのは無理だろう。孝雄でないとなると、叔父さんしかいないのだけど、なぜ片付けなければならなかったのか。
「お父さんの思い出の品を、叔父さんはこの家からなくそうとしているんじゃないかな。叔父さんは君のお母さんと結婚してこの家に入ろうと思っているんじゃないの」
 そういうと、孝雄は黙り込んだ。この家は、都心に近い静かな住宅街の中にあって、これだけの広さを有している。持ち物もどれもこれも高そうだ。見たところ、普通に働いて給料を貰っているわけでもなさそうだし、相当資産を持っているに違いない。叔父さんはそれを目当てに近づいているのかもしれない。けれど、それは孝雄にとって愉快な事柄ではない。昨日も、叔父さんのことはあまり好きじゃないと言っていた。触れて欲しくない話題なのだろう。これ以上、余計なことを言うのはよそう。
「ごめん、
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変なこと言っちゃったね。もう言わないから許してよ」
 孝雄はなおも難しい顔をして口をつぐんだままだ。それにしても、と僕は思った。母親も母親だ。いくらそっくりだからといって、死んだ夫の弟と恋仲になるなんて。いくらなんでも無節操だ。父親が死んだ後に、そっくりな人間が勝手に家の中に出入りするようになったら、孝雄がどう感じるかくらい、分かりそうなものだ。
「また魚の写真見ようよ。僕、ちょっと勉強してきたんだ。海の魚っていう本を古本屋で買ってさ」
 僕は明るく言ってみた。実は今日の午前中、古本屋で魚の図鑑を買ってきたのだ。日本近海に住んでいる魚の図鑑で、ジンベエザメは他の多くの魚たちより大きいスペースが割かれて掲載されていた。熱帯地域の海域に生息して、回遊している。メスは特定の海域に集まる傾向があり、オスは広く回遊する。日本では沖縄や四国なんかでも見られるそうだ。
 とはいえ、今のところ学んだのはそれくらいの知識だけだ。
「あのさ」と、孝雄は言いにくそうに、言葉を選びながら言った。「僕思うんだけど、叔父さんがお母さんに近づいたんじゃなくて、お母さんから叔父さんを好きになったような気がする」
「なんでそう思うの」
 孝雄はまた黙り込んだ。とても言いにくいことらしい。その言いにくいことについて、孝雄は今でも思い悩んでいるのだ。まだ十五歳だというのに。僕は改めて母親と叔父さんに憤りを感じた。僕の両親はまだ元気に生きている。もう少し元気がなくなれば文句を言われることもないだろうにと思うくらいだ。僕が十五歳のとき、受験で悩んだことはあったけど、言いたくても言えないとか、思い出したくないとか、そういったことはなかった。単純に生きることだけを、日々繰り返していた。今だってそうだ。僕の人生が単純でなかったことなんて、一度もなかった。
 孝雄はしばらく黙り込んだ後、リビングを出て行った。孝雄は賢い子供だ。僕が教えられることなんて、一つもないくらいだ。孝雄はこの年齢で父親をなくし、それにまつわる様々なことで悩んでいる。僕は孝雄の後を追わなかった。孝雄にかける言葉が見当たらなかった。力になってあげたいところだけど、僕には無理だ。
 僕はリビングのソファに座った。正面に鳥をかたどった置物がある。これは父親の趣味だろうか。石を研究するために山々に赴いていたのならば、自然と生き物にも興味が向いたのかもしれない。
 僕は立ち上がって棚に近づいた。鳥の置物を手にとって、眺めてみる。綺麗な透明の石で作られている。ガラスだろうか。乳白色のにごりのようなものが、かすかに混じっている。生き物というより、この石自体に興味があったのかもしれない。不思議な石だ。ガラスのように透明でもないし、完全な乳白色というわけでもない。どちらでもない、中間的な石だ。
 これから何か感じることはないだろうか。僕だって人並みの感受性があるはずだから、この置物から何か感じることができるはずだ。そう思って、色々と考えてみたけど、何も思いつかなかった。僕なんて、所詮こんなものだ。
 隣には昨日まで、写真立てがあった。北欧の国の風景だと、孝雄は言っていた。今、それはない。写真立てのあった場所には、塵の一つもなかった。もし長い間そこに飾られていたものが、急に取り去られたら、埃の跡のようなものがあってもいいようなものだが、そこは几帳面な叔父さんが掃除したのだろう。
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 置物の横にある賞状を見た。英語で書かれた賞状だ。難しい単語が使われていて、詳しい内容までは分からなかったが、どうやらその年の優秀な論文に対して送られる賞のようだ。アメリカの科学雑誌が主催する賞だろう。いくつかの科学雑誌は、そこに論文が掲載されるだけでも、とても栄誉なこととされているものもあって、優秀な論文に対しては賞が送られる。
 受賞者の名前には、高宮純一郎と篠山賢次とあった。高宮純一郎は言うまでもなく孝雄の父親だ。篠山賢次は共同研究者なのだろう。論文のタイトルにはミネラルとか、ガンマレイとかいう単語がある。直訳をするならばガンマ線によるミネラルの組成分析といった感じだろうか。ミネラルはこの場合、鉱物と訳すところだろう。
 僕が賞状を眺めていると、孝雄が戻ってきた。手には一枚の紙を持っている。孝雄は僕の前にそれを差し出した。
「なにこれ」
「お父さんが死ぬ前に、僕に書いた手紙。読んだのは死んでから随分経ったあとだったけど」
 A4用紙にワープロ書きの文字、上司に提出する報告書のような文体だった。遺言書にしてはやけに味気ないが、それは間違いなく、自分の死を予見し、残される者へ宛てた手紙だった。
『私の腎臓にはこぶしより幾分小さい悪性腫瘍がある。身体のあらゆる部分に転移している可能性があり、もう助かる見込みはない。一ヶ月ほど前、主治医から、もってあと三ヶ月という宣告を受けた。つまり、あと二ヶ月の命ということだ。この一ヶ月、私は気持ちの整理がつかないでいた。今まで自分が死ぬということを真剣に考えたことがなかったからだ。準備も覚悟も足りなかった。そして、少し落ち着いたから、今、孝雄宛てに手紙を書く気分になった。
 身体の調子は悪い。一日中腹部に痛みがあり、時々、肩や腰にも激痛が走る。動くのも辛いが、私にはいくつかやり残した仕事がある。それを今一生懸命にやっているところだ。本当なら、家族と一緒に過ごすべきなのは分かっている。それができない私を許して欲しい。私はお前たちをないがしろにしてきたかもしれない。それは唯一にして、最大の後悔となってしまった。しかし、後は上々の人生だったと思う。人生五十年にあと数年足りなかったが、今は少しだけ清々しい。お前は賢い子供だ。いずれ父さんの気持ちも分かってくれると信じている。
 癌に侵されていることを家族に言うべきか、私は迷っていた。未だに言えないでいる。このまま言えずに、ある日突然死ぬのかもしれない。私は最後まで、家族に対して臆病だった。
 私が死んだら、母さんは悲しむだろう。お前も知っているとおり、母さんは身体が弱く、精神的にも強くはない。母さんはほとんど苦労もせずに生きてきた。悲しみに対する抵抗がない。お前にとっては素晴らしい家族ではなかったかもしれないが、私と母さんはお互いに信頼しあっていた。柱と壁のようなものだ。柱はそれだけでは立っていられず、壁はそれだけでは倒れてしまう。お前は柱と壁の中で生きていた。しかし、これからは違う。お前が柱となり、壁とならなければならない。十三歳のお前にとって、それは辛いことだと思うが、お前なら大丈夫だと、父さんは思っている。母さんをよろしく頼む。
 お前に、言っておきたいことがある。辛くなったり、思い悩んだりしたときは、お前の叔父さんを頼れ。
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叔父さんは人当たりが悪いが、決してお前たちを無下にはしない。きっと力になってくれるはずだ。よく覚えておくように』
 僕はその手紙を読んだ後、大きく息を吐いた。なんだ、いい親父じゃないか。孝雄は仲がよくなかったと言っていたけど、父親はずっと息子のことを心配していたんだな。
「お父さんは、孝雄君のこと、最後まで気にしていたんだね」
「そうかもしれないけど、僕がこれを受け取ったのは父さんが死んだ後なんだよ。父さんは手紙を叔父さんに渡していて、死んだ後、叔父さんから受け取ったんだ。死ぬときだって、突然倒れたっていう連絡が病院からあって、お母さんと一緒に病院に行ったらもう集中治療室に入っていて、意識がなかったんだ。そのまま死んじゃった」
「結局家族に言えなかったんだね。最後に書いてある叔父さんて、あの叔父さんのことでしょう?」
「たぶんね」
 この文面を読むと、父親は随分と叔父さん、つまり自分の弟を信頼しているようだが、果たして、自分の妻と寝ているところを、このとき想像できただろうか。
「君のお父さんは叔父さんを頼れって言っているね」
「そうだね。お父さんが死ぬまで、僕叔父さんにはほとんど会ったことなかったんだ。急に頼れって言われても、知らない人に頼るなんて出来ないよ」
「お父さんが亡くなった後、叔父さんはこの家に来るようになったんだ」
 孝雄は何か言おうとして、また口を閉じた。触れてはいけないことだと分かっているけど、聞かずにはいられない。そもそも、この手紙は孝雄が僕に見せたくて持ってきたのだ。孝雄は僕に言いたいのだ。これまでずっと誰にも言わず、一人で抱え込んできたから。
「パソコンやろうよ」
 孝雄は手紙をひったくるように僕から取り、隣の物置部屋に向かっていった。僕はどうしたものだろうと思いながら、後についていく。
 孝雄はパソコンの電源を入れた。ファンがうなりを上げ、低い音を響かせながら回転し始める。
「僕じゃ役に立たないかもしれないけどさ、これでも一応二十三年ほどは生きているんだ。君より八年分長いでしょう。何か言いたいことがあるなら聞くよ」
 僕は試しにそう言ってみた。孝雄はモニターを見ながら、投げ捨てるように言った。
「どうでもいいことなんだ、それは」
 孝雄はマウスを動かしクリックをしている。ブラウザが開き、慣れた手つきでページを表示していく。やれやれ、それならば仕方がない。隣の家の犬が死んだり、総理大臣が議会で失言をしたり、アフリカの内戦で子供が敵を撃ち殺したり、世の中で起こっている数々の出来事と同じように、どうでもいいことなんだ。
 僕はガラクタの上に積んであった、両手に収まる程度の木箱を取り、それを尻の下に敷いて椅子として使い、孝雄の背後からモニターを眺めていた。孝雄のマウスを操作する手つきが、どことなく不自然だ。背中が上下を繰り返している。次第に上下する動きが緩やかになり、そのうち止んだ。蛇が鳥の卵を飲み込むときのようだ。自分の身体より大きなものを身体の中に押し込み、消化し溶かしてしまう。
 孝雄は僕と話したくない気分らしく、背中を向けたままクリックをし続けている。カチカチという音で僕の存在を消そうとしているかのようだ。しばらく一人にしたほうがいいのだろうと思った。
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 木箱を元の場所に戻そうとしたが、どこかにつかえて中々収まらない。背伸びをしてやっと手が届くような場所にあったので、何がつかえているのか見えない。
 僕は木箱を足場にして、その上に立った。ようやくガラクタの一番上の様子が見えた。つかえていたものは、緩衝材によって厳重にくるまれた筆箱のようなものだった。僕はそれを手にとって、木箱を降りた。
 筆箱のような物体は片手でようやく掴めるくらいの大きさで、以外にずっしりと重さがあった。それだけで、明らかに筆箱ではないことが分かる。半透明な緩衝材ごしにうっすらと金属のような銀色が滲んでいる。これを見たことがあると思った。
 梱包を解いた。中から、鈍く光る金属のブロックのようなものが現れた。ハードディスクだ。パソコンのデータを保存するための、大容量ディスクだった。昨日、孝雄が言っていたことを思い出した。叔父さんが初期化しちゃったんだ。初期化したのではなく、ハードディスクを交換したのではないだろうか。ディスクを交換するだけならば、重要なデータを消去せずに済むし、まっさらな状態に戻すこともできる。
 このディスクの中身を見たいと思った。それはまがりなりにも化学を学んでいた者としての純然たる興味、という以外にも、予感めいたものもあった。叔父さんはなぜディスクの交換をしなければならなかったのか。所有者が変わるパソコンを初期化するのは、セキュリティの観点からある程度常識だ。しかし、ひっかかるのは、所有者が父親から息子へ、つまり家族の中だけで移動するのに対し、家族でないものが初期化しているというところだ。
「ねえ」と、僕は出来る限り穏やかに言った。「これって何だと思う?」
 差し出した金属の塊を、孝雄は不思議そうに眺めていた。何なのか、分からないようだ。
「なにそれ」
 じっくりと観察した後、孝雄は言った。
「これはハードディスクだよ。パソコンの情報を記録するものだ」
「それがどうかしたの」
「孝雄君は、このパソコンを使おうとしたとき、叔父さんが初期化したって言ったよね。初期化したんじゃなくて、ディスクを交換しただけなんじゃないかな」
 ふうん、と孝雄はぴんとこないといった表情で言った。僕はなおも続ける。
「初期化しちゃったらデータは消えるけど、交換しただけなら、こっちのほうに残っているかもしれない。叔父さんは几帳面なのかもしれないけど、やっぱりデータを残しておいたんじゃないかな。どういうことかというと、今そこで動いているパソコンのディスクを、こっちのディスクに戻したら、お父さんが使っていた状態に戻るんじゃないかっていうことなんだ」
 僕がそう言うと、孝雄の表情が一瞬こわばった。僕の言いたいことが、分かったのだ。お父さんが使っていた状態に戻る。それはつまり、二年前に戻るということだ。
「見てみたくない? お父さんがどんなことをしていて、それについてどう思っていたのか」
 これが切っ掛けになるかもしれない。僕はそう思った。孝雄が抱えている数々の問題を解決する糸口が、ひょっとしたらこの無機質な金属の塊の中にあるのかもしれない。
 孝雄はどうしようか迷っているようだったが、やがて小さく頷いた。僕はマウスを操作し、パソコンをシャットダウンした。ガラクタの山に積まれている工具箱からドライバーを取り出し、
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それを使ってパソコンの筐体を開く。あまり詳しいほうではないけれど、ハードディスクの交換くらいは出来る。二、三のケーブルを差し替えるだけだ。
 電源を入れると、パソコンが起動した。オペレーティングシステムが立ち上がり、デスクトップが表示された。やはりデータは消えていない。デスクトップは色々なファイルで埋め尽くされていた。どれも、研究に関する資料のようだった。おそらく、叔父さんは何一つ、ファイルを削除しなかったに違いない。この部屋もそうだけど、叔父さんは几帳面なわりに、物を捨てようとしない。ファイルも取っておこうと思ったのだ。
 僕はその中の、『ブロモ火山についての考察』というタイトルのファイルを開いた。六ページほどの日本語で書かれた文章だった。レポート形式と言うよりも、雑記といった感じの体裁だった。
 冒頭の数行を読むと、ブロモ火山とはインドネシアのジャワ島の東部にある火山だということが分かった。
「お父さんは火山について調べていたの」
「火山かどうか分からないけど、石について調べていたんだよ」
 文書の他にも、画像ファイルが保存されているフォルダがあった。画像は場所の名前ごとに整理されていた。カナダ・ブリティッシュコロンビア州、アイスランド・スカフタフェットル国立公園、日本でいうと、山梨のフォルダがいくつかあり、熊本や、三宅といったものもあった。
「お父さんは山ばかり行っていたんだ」と、孝雄は言った。「僕も小さい頃、たまに連れていかれたんだ。僕はあんまり山が好きじゃなかった。お父さんは僕をおいて、一人で登っていた。僕はいつもお母さんと一緒に麓の旅館とか、ロッジでお父さんが帰ってくるのを待っていた。いつか、山はつまんないから、海に行こうってお父さんに言ったら、お父さんは、そうか、山はつまんないか、今度は海に行こうな、て言った。一度も行かなかったけどね」
「孝雄君は海のほうが好きなんだね。魚も好きだし」
 僕が言うと、孝雄は首を振った。
「別に海が好きだったわけじゃないよ。でも、山よりは楽しいだろうなって思ってた。魚も勉強して覚えたんだ。海に行ったら、どんな魚がいてもすぐに分かるようにね」
 孝雄は感情を交えず、淡々と言った。淡々と冷静に言うべき事柄ではないような気がした。それはある種のノスタルジアを交えるべき類のものではないだろうか。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「なに」
「お父さんはすごく忙しかったの? 休みの日がないくらいに」
「うん。小さい頃、僕はお父さんを見ていて、大人になったら休みがなくなるんだなって思っていたくらいだから」
「それでも一緒に山には行っていたんだ」
「一緒に行ったけど、山に登ったのはお父さんだけだよ。きっと仕事をしていたんじゃないかって思う」
 父親としては忙しい中、少しでも家族の時間を増やそうと思って連れて行ったのだろう。
 更に奥深い階層に移動し、別のファイルを開く。しかし、どの場所に行っても、研究資料や論文しかなかった。
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どこまでも仕事人間だ。
 メールソフトを開こうとして、躊躇した。いくらなんでも、メールを見るのはプライバシーの侵害だ。といっても、ここまでしておいて、プライバシーも何もない。それに、すでにこの世にいない人間に、プライバシーという概念は適用されるだろうか。だからと言って、メールを見るのは。
「メールを見てみる?」
 僕は孝雄に聞いた。孝雄はゆっくりと頷く。孝雄が見たいのならば見よう。孝雄が納得するなら、それでいい、と自分に対して言い訳をしてみる。
 メールもやはり、研究に関することばかりだった。特に、篠山賢次とのやり取りが多かった。あの賞状に書いてあった共同研究者だ。学会がいついつに開かれる。提出書類を送った。そういった事務的なことから、研究に関する考察も、延々とやり取りされている。時には喧嘩口調のものまであった。こうして見てみると、篠山賢次は父親にとって重要人物だったことが分かる。
「この篠山賢次っていう人知ってる? リビングに飾ってある賞状にもこの人の名前が書いてあったけど」
「知らない」
 にべもなく孝雄は言った。
 メールの中の一つに、家族に関するものがあった。送信日を見ると、孝雄が中学校に上がるときに書いたもののようだ。つまり、父親が死んだ年ということになるが、このときはまだ、そのことには触れられていない。
 とはいっても、分析機械の購入に関する予算の話の最後に、ついでに書かれたようなものだった。今度、息子が中学生になるが、段々と反抗的になってきて、接するのが難しくなってきた、というような内容だった。相談というよりも、ただの愚痴だ。それに関する篠山賢次からの返信は、一人身の俺にそんなこと言われても答えようがない、という一言で終わっていた。
 結局、期待していたようなものは見つからなかった。分かったことといえば、父親は終始仕事のことを考えていたということだけだった。
「何もないね」
 僕が言うと、孝雄はほっとしたような、がっかりしたような複雑な表情になった。
 パソコンをシャットダウンしようと思って、ファイルを全て閉じた。そのとき、デスクトップにあるゴミ箱フォルダが目に入った。ゴミ箱フォルダは空っぽのとき、空のアイコン表示になるが、今はファイルが捨てられているときのアイコンになっていた。
「ゴミ箱に何か入っているな」
 僕は独り言のように言った。ゴミ箱を開くと、いくつかのファイルが表示された。どれも文書ファイルのようだった。ファイルのタイトル全てが人名になっていた。ゴミ箱に入っている状態ではファイルは開けないので、一旦元の場所に戻す。
 ファイルが作成された日付はほとんどが二年前の九月ごろだった。ファイルは全部で十個ほどある。孝雄の名前が書いてあるファイルもあった。
「これ、開いてみる?」
 孝雄に確認する。孝雄はいくらか緊張した面持ちで、はいともいいえとも言わず、画面に表示されている自分の名前を見つめている。時期からいって、父親の死期が目前に迫っている頃だろう。
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 僕は思い切ってファイルを開いた。横書きの文章が表示される。資料や論文ばかり見ていたので、これもその中の一つかと勘違いしたが、すぐに孝雄が持ってきた遺書であることが分かった。私の腎臓にはこぶしより幾分小さい悪性腫瘍がある。その一文から、文章は始まっている。電子的な光の明滅で表されているだけのはずの文章が、やけに生々しく迫ってくる。内容は孝雄の持ってきた紙のものと同じだった。父親はこのパソコンを使って、孝雄に手紙を書いたのだ。
 美智子宛ての手紙もあった。僕はもう感覚が麻痺しているような感じで、ここまでやったんだから、別に美智子宛ての手紙を見ても、問題はないだろうと思った。孝雄に聞きもせず、ファイルを開いた。孝雄も別段拒否するようなことはない。
 美智子宛ての手紙は孝雄のものよりも、いくらか長い。冒頭は同じ出だしで始まっている。コピーアンドペーストで貼り付けたかのようだ。
『私の腎臓にはこぶしより幾分小さい悪性腫瘍がある。身体のあらゆる部分に転移している可能性があり、もう助かる見込みはない。もって後二ヶ月だと、宣告された。
 お前にとって私はどのような夫だったのだろうと、初めて振り返っている。今思うと、私は自分のことを、夫であり父であり、男であり人間であると考えたことは少なかった。私はいつでも一研究者であり、それは私の支えであった。しかし、初めて思う。私は人間であった。死を恐れ、こんな形でお前たちの前から消えることを残念に思う。同時に、激しい悔恨に襲われている。
 お前は私の知る限り、最高の妻であった。死を目前にして感傷的になっているわけではない。心底そう思う。正直に言うと、教授の紹介でお前に会ったとき、私がお前を気に入ったのは、容姿でも性格でもなく、バックボーンであった。高宮家の地元で培ってきた権力であり、保有資産であった。これだけの資産があれば、私は経済的な数々の問題を気にせず、研究に打ち込めると思った。それは確かに間違いではなかった。私は高宮家の養子になることで、財力を得て、結果を出した。そのことに関して、私は少しも恥じてはいない。
 お前も私の考えが分かっていたと思う。お前は高宮家の古い価値観の中で厳格に育った。妻は常に夫に尽くさなければならないと教えられ、それを守り通した。私にとってそれは好都合だった。私は最大限にお前を利用した。
 私がお前を幸せにしたとは思えない。お前の両親にも、私は良く映らなかっただろう。その両親も死に、私ももうじき死ぬ。お前はどう思うだろうか。悲しむだろうか。開放されたと思うのだろうか。私が願うのは、お前がせめて少しでも前向きに、今後の人生を歩んで欲しいということだけだが、お前のことだから、きっと悲嘆にくれるのだろう。それが分かるだけに、私は今、激しく後悔している。素晴らしい妻を悲しませることになるだろうから。それが一番恥ずかしいことだ。
 私が死んでも経済的には問題はない。その点は、私にとって救いだ。今までとは違う人生にはなると思うが、お前には孝雄がついている。あの子は私に似て、難しいところがあるが、賢く、なんでも出来る子供だ。必ずお前を助けてくれる。
 私はこんな身体になってもまだ仕事をしている。この後もいくつかの研究会に出席しなければならない。私の病気を知っている者は、主治医以外にまだ一人もいない。私のことだから、誰にも言わず、ある日突然死ぬのではないかと思う。この手紙をお前が見ることも、ひょっとしたらないのかもしれない。それでもまあ、いい』
 文章はそこで終わっていた。美智子はこの文章を読んだのだろうか。叔父さんとの関係は、
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人生を前向きに生きている証拠なのだろうか。僕は複雑な気分になった。
 孝雄は黙って読んでいる。少なくともこの手紙を、孝雄は読んだことはないだろう。行間にあるわずかな気配まで察知しようと、一生懸命読んでいる。僕はなんて声を掛ければいいのだろう。いい親父だったね、とか、これから頑張らないとね、とかだろうか。とてもじゃないけど、そんなありきたりな文句は口にできない。
 僕はしばらくモニターを眺めていた。そして、ふと、奇妙な違和感を覚えた。手紙はその他にも、数人に宛てられていた。仕事関係の人間や、親戚、あるいは親しい知人だろう。当然知らない名前ばかりだったが、何かが足りない。
「この中に、叔父さんはいる?」
「知らないよ。僕、叔父さんの名前知らないもの」
「え、だって、頻繁に出入りしているんでしょ」
「あんまり話したことないから」
「でもさ、お母さんと叔父さんは仲がいいんだから、名前を呼ぶことくらいあるでしょう。聞いたことないの」
「お母さんは、叔父さんのことをアナタって呼んでいるから」
 アナタ? そういう呼び方をするくらいの仲ということか。抜き差しならない密接な関係なわけだから、思わずそう呼んでしまうこともあるのだろう。
「それにしたって、叔父さんの話をお母さんとすることだってあるわけでしょう。まさかお母さんまで叔父さんの名前を知らないってことはないでしょ」
「さあ、どうなんだろう」
 孝雄は言外に含みを持たせるように言った。そんなことはあるのだろうか。名前も知らない人が家に出入りするなんて。
 ただ、僕が感じた違和感は、そのことではなかった。叔父さんはこの中にあるかもしれないし、ないかもしれない。しかし、確実になければならない名前が、ない。篠山憲次だ。篠山賢次の名前がない。共同研究者で、ガンマ線によるミネラルの組成分析という難しそうな論文で同時受賞した人間だ。共同研究者なのだから、手紙を出していてもおかしくない。それとも、共同で研究したものの、それほど親しくなかったのか、あるいはその後、仲たがいでもしたのか。
 突然、部屋の扉が開いた。
 僕は驚いて、飛び上がるように振り向いた。そこには叔父さんが立っていた。薄暗い中でメガネの奥の様子がうかがい知れないが、明らかに憤っている表情だった。孝雄も呆然と叔父さんを見上げている。
「誰がここに入っていいと言った」
 怒りを押し殺した震える声が、狭い部屋に響く。怒りは僕に向けられたもののようだ。メガネを鈍く光らせて、僕を見据えている。
「あの、僕、そんなつもりでは。まだ七時になったばかりで」
 なんと言ったらいいのか分からず、そんな変な言い訳を言ってしまった。七時になったばかりだから、まだ帰ってこないだろうと思ったからだが、言い訳にもならない。
「出て行ってくれ」
 叔父さんは強い口調で言った。孝雄は心配そうに僕を見ていた。自分も共犯者だという想いがあるのだろう。この場は出て行くしかなさそうだ。僕は木箱の椅子から立ち上がった。叔父さんは出口を開け、
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僕を玄関のほうに促した。
 部屋を出ると、廊下に母親がいた。車椅子に座ったまま、僕を眺めている。非難しているようには見えなかった。どちらかというと、怯えているようだった。体を震わせ、僕が頭を下げて横を通過しようとすると、まるで汚い生物が接近したかのように、体をひねって避ける仕草をした。僕はそんな悪いことをしたのか。
 叔父さんは玄関まで僕を見送りに来た。見送りというよりも、ちゃんと帰るのかどうかを監視しているようだった。なぜここまで怒られなければならないのだろう思った。ハードディスクを黙って交換したのは、確かに悪いことだけど、叔父さんはまだそのことを知らないはずだ。後で調べれば簡単に分かるが、少なくとも現時点で、筐体の中に入っているディスクが新しいか古いかなんて分からないはずだ。
 僕は昨日孝雄が言っていた言葉を思い出した。お母さんがいないときだけ、パソコンが使える。確かに母親は帰ってきて、家にいる。今の状況はパソコンを使える条件を満たさない。だから怒っているのだろうか。
「もう君は明日から来なくていい。二日間の給料はちゃんと振り込んでおく」
 叔父さんは言った。なんだかよく分からないけど、父親気取りだ。孝雄の父親はこの叔父さんを頼れと言ったけど、本当にそれは正しかったのだろうかと疑問に思う。
「分かりました。帰ります。でも、僕は自分が間違ったことをしたとは思っていませんから。僕はあなたたちが外出している間、ずっと孝雄君と一緒にいたんです。本来の目的からすると、勉強が終わったら僕は帰ってもいいはずです。でも、孝雄君が一人になってしまうから、残っていたんです。そのことについて、あなたに非難する筋合いはないと思います」
 とにかく、僕も腹が立ったので言ってやった。どちらかというと、僕は仕事が終わったらさっさと帰ろうと思っていて、残っていたのは結果論みたいなところだったけど、少なくとも死んだ兄の妻と昼間から遊びまわっているこの男よりも、ましなはずだ。
「帰りたまえ」
 叔父さんはいくらか気勢をそがれた様子で、トーンを下げて言った。僕は腹立たしいのと、言いたいことを言ってやったという達成感で、気分が高揚したまま外に出た。
 帰り道、叔父さんの怒っている顔が頭に浮かんで、そのたびに腹が立った。いったい何なんだ。僕は振り回されっぱなしじゃないか。

 そうやって家に着いたはいいけど、冷静になって考えてみると、僕は首を宣告されたのだということに気づいた。
 また無職に戻ってしまった。二日分の給料なんて、高が知れている。どう頑張っても一週間でなくなってしまうだろう。また、就職活動かと思うと、気分が暗くなった。
 僕はその日の遅い夕食をコンビニの弁当で済ませ、自分の部屋で、海の魚をぼんやりと眺めていた。せっかく買ったこの図鑑も、もう使わないんだろうなと思った。古本屋で買ったので、値段は安かったけれど、それでも僕の食事の二食分くらいだ。
 海にはたくさんの魚がいる。ジンベエザメや、マンタとか、ホオジロザメとか、そういった有名な魚を除けば、大体が同じ形をしているように見える。アジとイワシの差もよく分からない。孝雄にはこの区別がつくのだろうか。
 図鑑を閉じた。もうこれを見ることもないだろう。図鑑よりも先に、求職誌を読まなければならない。今の僕にとってそっちのほうが断然必要だ。
 明日、
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買うのはもったいないので、本屋で立ち読みすることにして、今日はもう寝よう。僕はひどく疲れている。
 電気を消し、ベッドに横になって眠くなるのを待ったが、意に反して中々寝られなかった。体も心も疲れているはずなのに、目は冴えていた。無理やり目をつぶると、まぶたに叔父さんの怒った顔が浮かぶ。数えるしか見ていないはずなのに、鮮明に思い出される。銀縁で細長いメガネを指でつまんで持ち上げる仕草、唇をほとんど動かさずにぼそぼそと話す。口元に薄いしわが刻まれ、たるみかけている頬はまだらに黒ずんでいる。本当に孝雄の父親は弟を信頼していたのだろうか。玄関にあった写真は本当にそっくりだったけど、叔父さんがあれだけ心からの笑みをできるとは思えない。あれは満たされた人間の表情だ。叔父さんは何かの目的を持って、あの家に出入りしているのだろうが、現状、とても満たされているとは思えない。
 穏やかな海が満ちるように、僕の意識はかすんでいった。ともかく寝られそうだ。明日からのことは明日に考えよう。いくらあの叔父さんに腹を立てたところで、二度と会うことはないのだ。切り替えよう。僕はどちらかというと過去を引きずるタイプだけれど、明日の生活費もままならない状況でそんな分類は無意味だ。
 突然、携帯電話が音を立てた。僕は驚いて、跳ね上がった。僕の携帯電話が鳴るなんてことは、梅雨の晴れ間より珍しい。寝る前はマナーモードにしておくべきだろうけど、そんな必要もないくらい鳴らない。それがちょうど寝る間際に、大ボリュームで鳴ったのだ。僕の心臓ははちきれそうに脈を打った。これは身体にとっても良くない。
 慌てて充電器に刺さっている携帯電話を手に取る。東京の市外局番から始まる、知らない番号からだった。僕は目覚めきらない頭で、ひょっとしたら僕が首になったことを聞きつけて、誰かが僕を採用しようと、連絡を取りに来たのかもしれないなどと、非現実的な妄想をしてみる。
「お兄さん」
 電話に出ると、間髪いれずに声が聞こえた。不安と焦燥が入り混じった声だった。孝雄だった。孝雄は何かに怯えているようだった。とっさに、叔父さんの顔が、また頭に浮かんで、目が覚めた。
「どうしたの」
「今からうちに来られる?」
「いや、まあ、行けなくもないけど、もう遅い時間だよ。それに、僕、さっき叔父さんに、もううちに来るなって言われたんだけど」
「とにかく、そういう状況じゃないんだ。僕だけじゃどうしようもなんだ」
「孝雄君、とりあえず落ち着こう。何があったのか話してくれるかな」
「お母さんが大変なんだ」
 お母さんが? どういうことだ。
「体調が悪くなったとか?」
「そういうんじゃなくて、状況は難しすぎて、電話じゃ説明することができないんだ。一言でいうと、大変なんだよ」
 大変か。孝雄がこれほど取り乱しているのだから、相当大変なんだろう。
「分かったよ。今から行くから待ってて」
 急いで準備して外に出た。歩いて二十分ほど、走って十分もかからない距離だ。実をいうと、十分も走り続けられるほどの体力はないのだけれど、時々休みながら、僕は走った。二度と見ることもない思っていた鉄格子の門に到着した頃には、
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息を整えるのに数分を要する始末だった。しばらく門に手をかけ、うつむきながら何度も深呼吸をした。少し落ち着いたところでインターフォンを押そうと顔を上げたら、目の前には叔父さんが立っていた。
 叔父さんは白いTシャツに綿のズボンというラフな服装だった。足元はサンダルだ。家の外に出て、誰かと遭遇するとは考えてもいない場合の格好だった。
「ええっと、僕は、お母さんが大変だからって、孝雄君に呼ばれたわけで、決してあなたの意向を無視したわけでもなく、でも良く考えてみたら、あなたの意向に従う義務もないんだけど」
 僕は言い訳しなければと思ったが、何で言い訳しなければならないんだと思い直し、頭がこんがらがって、思いついた言葉を並べ立てた。叔父さんは門の向こうでじっとしたまま、僕を睨みつけている。月の光でメガネが輝いている。叔父さんは暗闇の中に馴染んでいた。暗闇と叔父さんは一緒の物質で出来ているように思えた。どちらも同じ素材が使われているのではないだろうか。
「君はなぜここに来たんだ」
 門の向こう側から、叔父さんが言った。怒っている様子もなかったが、もちろん歓迎している気配は微塵もない。
「だから、言ったでしょう、孝雄君に呼ばれて来たんですよ。お母さんが大変だからって。それより、あなたは何をしているんですか。大事な人が大変なんでしょう。こんなところで僕を見張っている場合じゃないんじゃないですか」
 息を切らせながら、皮肉を込めて言った。
「この状況になったら、私にはもう何も出来ない。むしろ外でおとなしく待っていたほうがいい」
 叔父さんは内側から門の鍵を開けた。ガンという重い金属音が、静寂を切り裂いた。
「入りたまえ」
 僕は慎重に門を開け、中に入る。
「君は、美智子がどんな様子だか、聞いたのか」
「とにかく大変だとしか聞いていません」
 叔父さんは僕から目を逸らし、後ろを振り返った。部屋の明かりは全て消えている。一見すると、寝静まっているように思える。一体どうなっているのだ。
「君は、あれの病気について、どこまで知っているんだ」
 叔父さんは、美智子のことをあれと呼んだ。
「何も知りませんよ。足が悪いくらいしか」
「足もそうだが、もっと重大な病気を患っている」
 叔父さんは、静かに、まるで口いっぱいまで注がれた飲み物を運ぶように、慎重に言った。僕は父親のことを思い出した。まさか、癌なのか。
「あれは脳に重大な欠陥を持っている」叔父さんは続けた。「兄が死んだとき、美智子は絶望に暮れ、自殺をしようとした。今日の夕方、君たちがパソコンをいじっていたあの部屋で、スチールラックにロープを巻きつけて首を吊ったんだ。最初に発見したのは孝雄だった。孝雄は首を吊っている母親を、一人で降ろし、救急車を呼んだ。実に良く出来た子供だよ、孝雄は。どんな状況でも自分のできることを冷静に分析し、実行に移せる。そこら辺の大人だって、そんなことはなかなかできない。だが、やはり孝雄にとっては、ショックだったことのようだ。
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当然だ。自分の母親が首を吊っているところを見てしまったんだから」
 僕は叔父さんの言っていることを、うまく認識できなかった。自殺? 母親が? 元気とはいえないかもしれないけど、まだちゃんと生きているじゃないか。
「美智子は助かった。救急車が到着したとき、心配停止状態だったが、孝雄の対応が早かったのと、救命士が適切な処置をしたために、なんとか一命を取り留めたのだ。しかし、酸素欠乏で脳に重大な損傷が残ってしまった。運動機能が麻痺し、記憶にも一部障害が残った。あれが車椅子を使っているのは、脳障害によって運動機能が麻痺したためだ」
 僕は焦っていた。僕は孝雄に呼ばれて急いで来たんだ。早く家の中に入って、孝雄の元に行かなければ。あなたの与太話を聞いている場合じゃないんだ。
「美智子の兄に対する愛情は、愛という次元のものではなかったのかもしれない。美智子にとって兄は唯一の男であり、人間であり、その他のあらゆる生物は、ほとんど価値のない、自分とは関係のない領域でただ生きている雑多な生物に過ぎなかった。君は孝雄が周りをきょろきょろと眺めているのを見たことがあるか」
 何度かある。変な癖だと思っていた。僕は頷く。
「あれはどこかにロープをかける場所があるんじゃないかと、探しているんだ。孝雄はまた母親が自殺するんじゃないかって、心の奥底でずっと思っている。今でも無意識にあの行動は行われている。兄の死は、家族に強い後遺症を残した」
 じゃあ、ひょっとしたら、今まさに、母親は自殺しようとしているんじゃないか。だから僕を呼んだのではないか。いや、でも、もしそうだとしたら、先に救急車を呼ぶべきだ。あるいは、呼んだけど、僕のほうが先に到着したのか。それにしても、叔父さんのこの落ち着き払った態度はなんなんだ。
「あなたは、そんな家族に付け込むようなことをした」
 僕はやっとのことで、そう言った。正直なところ、ちゃんと言葉になっているかは、はなはだ疑問だ。
「そう思われても仕方がないとは思うが、事実ではない」
 叔父さんは悲しそうに否定した。初めてだ。冷ややかな表情に人間らしさが滲んだのは。
「孝雄君に聞いたんだ。あなたは孝雄君の母親と寝ていた。昼間だっていつも二人で外出している。孝雄君の父親は随分あなたのことを信頼していた。それを利用して、家族に入り込もうとしているんだ」
 叔父さんは黙って僕を見ている。お前の言うことは、全部筋違いなんだよ。そう哀れむような視線だ。
「美智子がわずらったのは、運動機能の麻痺だけではない。美智子はあの日以来、ずっと記憶が混濁している。むしろ、そちらのほうが問題だ。美智子はおそらく、意識のある間のほとんどは、自分の夫が死んだとは思っていない」
 叔父さんは一息ついた。適切な言葉を選んでいるように見えた。どういえば正しく伝わるのか。僕は孝雄が言った言葉を思い出した。お母さんから叔父さんを好きになったような気がする。孝雄は確かにそう言って、その続きはついに話さなかった。
「あれは、私のことを自分の夫だと思っている。私はあれの求めに応じて、夫として接してきた。共同生活者としても、男としても、だ。それが正しいことだったのかは分からないが、私にはそうすることしかできない。それが私の使命だからだ。毎日のように外に連れ出していたのは、
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私だ。孝雄に、母親のそういう姿を見せたくなかったからだ。家庭教師を雇うことも、私から提案したことだ。誰かが家にいれば、美智子が安心して外出できるからだ」
 一体どこまで本当なんだ。俄かには信じられない。これも叔父さんの計画の一部なのか。
「写真は」
 僕は言った。
「写真?」
「玄関にあった孝雄君の父親の写真ですよ。今日来たら、なくなっていた。リビングのやつも。あれを片付けたのはあなたでしょう」
「そうだ。写真は私が片付けた。しかし、玄関の写真に写っていたのは兄ではなく私で、写真を撮ったのが兄だ」
「でも、孝雄君は、あれは父親だと。それに、なんであなたが雪山なんか行くんですか。あの写真の人物は、黒く雪焼けして健康的だった。今のあなたを見ると、お世辞にも健康的とは言えない」
「雪山に行けば、私だって雪焼けくらいする。私と兄は良く似ていたし、写真では区別はつきにくいかもしれない」
 色々と聞かなければならないことがあるような気がする。しかし、僕は混乱していた。どの部分が結合し、どの部分が入れ替われば、あの写真が叔父さんになるのだろう。
「兄は自分の仕事のことは家族にはあまり言わなかった。あの写真も、研究のために雪山に言ったときの写真だ、という程度にしか言わなかったのだろう。それだけしか知らなければ、孝雄があの写真を自分の父親だと思い込んでいてもおかしくはない。それに私が雪山に行ったのは、私が兄の仕事上のパートナーだからだ」
「じゃあ、あなたも研究をしていたんですか。石とかの」
「そうだ。私と兄はずっと同じ研究をしていた。私と兄はお互いを尊重し合える、研究分野では稀有なパートナーだった。言葉を交わさなくてもお互いのことが分かり、出し抜くこともなく、志向も似通っていた。これ以上のパートナーはどこにもいないだろう」
「じゃあ、写真を片付けたのは」
「君に余計な詮索をされたくなかったから、家の中を色々と整理したんだ。リビングの写真は、二人でフィンランドに行ったときの写真で、ついでに片付けておいた。そこまですることもないだろうと思ったが、君は私の予想を越えて、余計な詮索をした。写真は君が来る前に片付けておくべきだった。まさかハードディスクのことまで気づくとは」
 ハードディスク。そうだ、僕はゴミ箱フォルダからいくつかのファイルを探し出した。それは父親が親しい間柄の人に宛てた手紙だった。その中には当然あるべきファイルがなかった。
「ひょっとして、篠山賢次というのは」
「私のことだ」
「でも、苗字が」
「兄は結婚して苗字を変えている」
 そうだった。母親に宛てた手紙の中で、自分が養子に入ったことについて語られていた。親しい間柄の人に宛てた手紙の中に、篠山賢次宛ての手紙がなかったのは、手紙で送るまでもない、ということなのか。
「僕は、
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あなたが孝雄君に渡したという手紙を読みました。ハードディスクにもその手紙が保存されていました。でもあなた宛の手紙はなかった」
「兄は、自分が死ぬことを、最後の最後に私にだけ告げたんだ。家族を頼むと言い残してね。それが私に対する手紙のようなもので、未だに私の十字架になっている。兄は自分の手から、手紙を届けることはしなかった。私がプリントアウトして、それぞれの人に配った。ただ、美智子に対しては出来なかった。あれは夫の遺書を読める状況ではなかった。だから君が読んだ文章は、まだ美智子は読んでいない」
 言葉が出なかった。息が乱れているのは、走ったせいだけではない。呼吸の仕方を忘れてしまった。
「君の余計な詮索のおかげで、今、美智子の記憶は混乱している。美智子にはあの部屋のことを思い出させてはならなかった。孝雄には母親がいないときにだけ使っていいとは言ってあった。美智子も普段から、無意識的にあの部屋は避けていた。しかし、美智子はやはり孝雄のことが気になるようで、昨日も今日も、早く帰りたいと言い出した。嫌な予感がしたが、私はあれに従った。その嫌な予感は見事なまでに的中してしまったわけだ。まさか、家庭教師がここまでするとは思ってもみなかった」
 なんていうことだ。僕は身体が震えていた。胃を雑巾のように絞られているようだ。胃に痛みが走った。
「僕はどうすればいいのでしょう」
 恐る恐る尋ねた。自分では何も決められなかった。我ながら情けないと思った。僕は大事なことを、いつも決められない。就職も、人生も、今このときも。
「私を見ると、あれは更に混乱する。私は今の状況では中に入ることが出来ない。君が中に入って落ち着かせてくれるといい。今までも何度かあった事態だ。そのうち収まると思うが、君のような第三者がいたほうが、逆にいいのかもしれない。少なくとも、家庭教師としての信頼は、ある程度はある」
「分かりました」
 僕はそう言うのがやっとだった。足を前に出し、前に出した足を後ろに引き、反対の足を前に出して進んでいくという行為を正確に出来るかどうか、自信がなかった。だが、行かなければならない。
 家の中は真っ暗だった。電気は消えていた。僕は玄関で電気を点けた。
「こんばんは」
 間の抜けた声が、廊下の奥へと伝っていった。すぐに孝雄が顔を出した。
「こっちに来て」
 孝雄は手招きをしている。僕は上がって奥に進んだ。リビングの前を通り、物置部屋を通過した。後悔が僕を襲う。ああ、余計なことをしなければよかった。
「こっち」
 孝雄の後について、奥の部屋に入った。その部屋も暗かった。そこは寝室のようで、ゆったりとしたセミダブルのベッドが部屋の中央に置かれているのが、締め切ったカーテンの隙間から入り込む僅かな光で分かった。美智子は床に座り込み、ベッドに顔を伏せていた。泣いているようだった。
「お母さん、大丈夫ですか」
 僕は母親の横にひざまずき、そう尋ねた。その質問が、全く場違いなことは分かっていたが、僕の頭にある数少ない語彙の中で、この状況に最適な言葉は見当たらなかった。
「う、
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うう」
 美智子は唸るようにして泣いていたが、顔を上げ、僕を見ると、両手で顔を拭って言った。
「ああ、進藤さん、わざわざすみません」
「大丈夫ですか」
 もう一度、その場違いな言葉を言ってみた。
「ええ、ちょっと感情が高ぶってしまって。よくあるんです。それより、こんな夜遅く呼び出しちゃってすいません。きっと孝雄が呼んだんでしょう」
 そう言うと、孝雄を見た。孝雄は主人のいない車椅子の横で、心配そうに立ちすくんでいる。
「孝雄はあなたのことを気に入ってるみたい。だからあなたを呼んだのね。私がこんなだから、孝雄には心配をかけっぱなしで」
 記憶の混濁というから、どんな状況になっているのだろうと思っていたが、目を腫らし、呼吸は荒いものの、現状はしっかりと認識しているし、言葉遣いもはっきりしている。
「とりあえず、電気を点けませんか。このままだと暗くて何も見えません」
「いえ、やめてください。しばらく暗いままにしておいてください。今は光に映る色々なものを見たくないんです」
 僕は言われたとおり、電気は点けないままでいた。
「もう大丈夫よ、ご心配おかけしました」
 母親はベッドに身体をあずけたまま、僕を見上げて言った。
「何か飲みますか」
「そうね、悪いけど、水を一杯持ってきてもらえないかしら」
 僕はすぐに部屋を出た。後から孝雄がついてくる。孝雄はもう普段の冷静な表情に戻っていた。しかし、視点は定まっていない。
「お母さんの側にいてあげたほうがいいよ」
 僕はキッチンで水を汲みながら言った。孝雄は首を振る。
「いいんだ」
「でも、心配だから今までずっと一緒にいたんでしょ」
「もう大丈夫だって言ってたし、実際大丈夫なんだよ。本当は僕はいないほうがいいんだ。でも、一人にするわけにもいかないから、叔父さんが一緒にいろって。お兄さんが来てくれてよかった。でないと、しばらくあれが続いていたと思う」
 僕は蛇口を閉めて、息を吐いた。やはり、違う、と僕は思った。この子はとても利発で、道理をよく理解し、適切な処置を講ずることができる。しかし、ある部分で、決定的に何かが違っている。あるいは別の言い方をするならば、何かが欠損している。僕にはそれが何なのか、正確に理解することは出来そうにない。
 僕は孝雄をキッチンにおいて部屋に戻った。美智子は幾分ぐったりとしているように見受けられた。泣くのもわめくのも、記憶が混濁するのも、体力を必要とするのだ。
 目の前に水の入ったグラスを差し出すと、母は半分くらいを一気に飲んだ。そして身体の中に蓄積した記憶を吐き出すように、大きく一息ついた。
「夜遅くにすいませんね」
 母親はもう一度言った。
「いえ、
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僕は平気です。それより具合はどうですか。どうやら、あまり体調が良くないようなんですが」
「そうね」というと、動かない足を折りたたんだまま、母親はもったいぶったように体勢を変えた。「時々ね、誰かがドアを開けて部屋に入ってくることがあるの。それはもう一人の私なの。もう一人の私は、悪魔のような顔をして、背後には長い影を従えて、ゆっくりと部屋に入ってくる。悪魔のような顔をしたもう一人の私は、車椅子に座って部屋の隅で震えている私を見つけると、足音を少しも立てないで近づいてくる。私は身動きも出来ないから、目をつぶり、耳をふさいで、神様、どうか悪魔を追い払ってくださいって祈ってるの。結局そんな祈りは誰にも届かなくて、悪魔のような顔をしたもう一人の私は、哀れむように視線を落として、慈悲深く私の顔を撫でるの。バカみたいでしょ、こうなるときは必ず、そんな想像が嫌でも頭の中に浮かぶのよ。顔を撫でられると、私の目からは涙が流れ出る。それは現実の涙なの」
 母親は、その悪魔と対話しているかのように、僕以外の誰かに向かって言った。
 いや、あるいは。
「あなたは今、どちらのあなたなのですか」
「大丈夫、心配しないで。悪魔のほうよ」
 母親はそう言うとうっすらと口元を緩ませた。はかなく今にも消えそうな、それが間もなく消えてしまうことを知っているかのような微笑だった。
「手を貸してくださる? 車椅子に戻るわ」
 僕は美智子を抱え、車椅子に座らせた。